近所に新しく家系のラーメン屋ができたので行く。
新しくと言ってもかつてあったそこまでおいしくない別のラーメン屋の居抜きで、とは言え吉祥寺にある有名な家系の系譜だというので、一応期待して入った。
店員の愛想はよく、席はカウンターのみ。注文から提供まで少し時間はかかるが許容範囲で、BGMはうるさすぎないFMラジオ。居抜きなりにこぎれいにされていて、おおむね好感が持てる。
いざ丼を目の前にして、スープの香りのよさに当たりを予感する。レンゲのひと掬い目で予感は確信になり、無心で麵をすする。
具のなくなったスープの底をつい浚って何度も飲んでしまうほどには出来が良く、次に来る時に何を頼もうかとメニュー表を眺めた。
普段は邪魔にならないだけの雑音でしかないラジオすら機嫌よく耳に入ってきて、「ふつおた」というコーナーが本当に存在していることを初めて認識する。なんというか、概念であってコーナー名ではない単語だと思っていた。
麦茶(水ではなく、麦茶。いいお店だ)を飲み干して帰り支度を整える。退店を急かす雰囲気もなく、ラジオからの明るい音楽に見送られて出口へ向かう。
『……あ、逃げた』
終わったと思った曲が戻ってきて、また終わった。と思ったらまた戻ってきて、今度こそ終わった。
『というわけで、アタシたちの新曲をお届けしました! CDは特典付きで絶賛発売中、各種サブスクでも配信してるから聞いてくれたらうれしい!です!』
「ありがとうございましたー! またお越しください!」
店主の元気な声とかぶって、少し低くて輪郭の印象的な声が明るく締める。いい曲だった気がしたけど、ラーメンがおいしかったせいかもしれない。
結局週に2回ペースでそのラーメン屋に通うようになった。上司が健康診断で引っかかった話を聞いて以来、これでも我慢している方だ。だいたい同じ時間帯に行っているもののあのラジオはもう流れていなくて、レギュラー放送ではなかったのだろう。
めぼしいメニューを全制覇して、トッピング全部乗せラーメンにライス並盛が鉄板だなと確信に至る頃になっても、あの時のラジオがまた流れないか耳が探していた。店主に聞いたところで、BGMに流しているだけのラジオの番組を覚えているわけはないだろう。
覚えているのは、ボーイッシュな女の子のパーソナリティだったことと、やたらにわちゃわちゃしたお祭りみたいな曲が流れたこと。バンドサウンドという感じでもなかったし、いわゆるアイドルなのだろうか。アニメの歌とかだったらなおさらわからないな……。
あの子の声がまた聞きたいのだと気づいても、あまりにもあの子に到達する手立てがなかった。そもそも音楽を聞かず、サブスクサービスに入っていないことを職場のアルバイトの子にもさんざん驚かれる。どうやって生きてるんですか、って、人間はイヤホンがなくたってラーメンがあれば生きられるんだよ。
思い立って新宿の豚骨ラーメンを食べに行った帰り、東南口のタワーレコードの看板と目が合う。そういえばCDも発売中だと、自分でも驚くくらいあの子の音声が言ったことを覚えている。
聞きたいなら探せばいいのか、とタワーレコードの入り口まで来て、CDショップの勝手のわからなさに道をふさがれる。思ったより広い。全部がJ-POPとしてまとまってるわけじゃないのか。
たぶんだけどアイドルコーナーにありそうな気がして、フロアマップを頼りに移動する。想像の10倍は数のあるCDから適当に数枚を手に取ってみるけど、グループ名も曲名もあの子の名前もわからないのに、CDのジャケットがヒントになるはずがない。そもそもジャケットに写っている女の子たちの見分けすらあまりつかないし、だいたい手掛かりになるようなワードがわかっていたら最初からGoogleに聞いている。
おそらく限りなく近づいているはずだけどこれ以上あの曲に近づく手段を失って、まあ、帰るか、と手に取ったCDを棚に戻す。きっと少しすればあの声が気になっていたことだって忘れるだろう。
Uターンして下りのエスカレーターを探そうとして、黒いエプロンと名札をつけた店員とすれ違って、だんだん薄れながらもここまで引きずった記憶を、普段来ないCDショップにわざわざ来るような記憶を忘れられるんだろうかと柄にもなく思って、「あの、」と声が出る。
「はい! どうされましたか?」
どうしたと言うべきなんだろう。ニコニコと愛想のいい店員さんはきっと音楽にめちゃくちゃ詳しくて、さっきまでアイドルコーナーにいたこと自体が場違いだと思われている気がして、ただでさえ説明しづらい状況なのにさらに言葉が出てこない。
「曲、曲を探していて。といっても、あんまり詳しいことがわからなくて、たまたま店で流れているのを聞いたのが忘れられないだけなんですけど、」
ラーメン屋で聞いたと明言するのが恥ずかしくて無意識にぼかしたことに気づいて、ますます自分がいたたまれなくなる。
「よろしければ探すのお手伝いしますよ! えっと、ヒントとかありますか?」
それはもうたどたどしいヒントだった。女の子のグループ。たぶんアイドル。人数は結構多かったと思う。1ヶ月くらい前にリリースの宣伝をラジオでしていた。わちゃわちゃした曲で、終わりそうでなかなか終わらない曲。
店員さんは難しい顔でこれかな、違うな、とCDの棚と向き合っていて、グループ名もわからないことが申し訳なくて何度も謝った。こういう時間も楽しいから全然!という返答があまりにもプロだった。
「少し低い声の女の子がいたと思うんです、その子がラジオやってて。あ、猫を追っかけるけどめちゃめちゃ逃げられるから曲が終わらないんだったと……」
「あ!!!」
かるたを取るみたいにものすごい速さでは行の棚に手を伸ばす店員さん。
「猫でわかりました、たぶんこちらです! 声が低めなのはこの、樹里ちゃんって子だと思います!」
指差されたジャケットの左下の、金髪のショートカットの子。ずっと忘れられなかった声の持ち主。
「あ、じゃあこれ、買います」
即決過ぎたのか、店員さんが若干素っぽく驚く。
「本当にこの曲か確認しなくて大丈夫ですか? 放クラならたぶんサブスクにもあるし、検索していただいてからご購入されるか決めても問題ありませんよ!」
「サブスク入ってなくて、ていうかイヤホンも持ってなくて……」
仕事としての愛想と音楽好きとしての信じられないという感情が同時に店員さんの顔に出る。そりゃそうだ。
「CD再生するものもないんですけど、これ聞くなら何を買うのがいいんですかね。一応パソコンは家にあります」
「それでしたら外付けのCDドライブを買ってPCに取り込むか、今は直接スマホに取り込めるものも取り扱っておりますよ!」
音楽に無知すぎる客なのにまともに接客をしてもらい会計を済ませ、かの印象的な赤と黄色の配色の袋にCDを入れてもらい外に出る。
相変わらず雑多な夕方の東南口の隅で袋からそっとCDを出して、あのラジオのことを思い出す。声から想像した通りのような、想像していたよりずっと優しそうでかっこいいような、樹里ちゃんという名前だったあの子。
人生にCDとイヤホンとーーあともしかするとサブスクもーーが必要になるとは、あの日のラーメン屋では思っていなかった。