アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

肺からあふれ出るきみの名前は澄むべきだから

適当に買ったカップラーメンをデスクで食べ終えて、ぼんやりとタイムラインをスクロールしてから共用の喫煙所に行く。カップ麺のスープでコーティングされていた舌が、キャスター5ミリの煙に浸食されていく。

煙草が好きかと言われると、ただ習慣になっているから喫煙所に吸い込まれてしまうだけな気がする。家でも狭いキッチンの換気扇下の閉塞感が落ち着くから、そこに収まるために吸っている。

同僚の「まだ紙巻き吸ってるんですか、アイコスの方がどこでも吸えて楽ですって」という何度目かの勧誘に「火をつけたいんだよ、火を」といつものように返して、声帯の震えとともに肺から出ていく煙の味を見送る。声と一緒に出ていく煙は、ただ吐き出すより雑味が多い。

 

前の飲み会で上司に「戸山さん煙草吸うんだ!? 意外だねえ」と言われて、若めの女性社員が煙草吸うことくらい当然の事象のひとつとして想定しておけよと思ったけど、「そういうリアクションされるのが面白くて吸ってるとこありますね~」と適当に答えたことを思い出した。まさか本当に他人のリアクション目当てで吸ってるわけないのに。

でも、じゃあどうしてわたしが喫煙者なのかを考えると、まあそれは大学のころ付き合っていた人が喫煙者だったからではあるんだけど、とうに別れた今もまだわたしが煙草を吸っている理由にはならないような気もした。その人の顔も、はっきり覚えているかと言われると怪しい。年上の人で、当時はずいぶんと熱を上げていたはずなんだけど、あの時のわたしがどういう思考回路をたどってその人を好きだったのかいつの間にかわからなくなってしまった。間違いなくわたしの過去ではあるのに、連続性のない誰かが吸い始めた煙草をわたしが引き継いで吸っているみたいだった。

 

キャスターが指の先でちりちりと短くなっていく。感動的においしいわけでは決してないし、同僚がよく言うイライラが鎮まるだとか頭が冴えるとかを実感したこともあまりない。それでも二本目に火をつけてしまうのは、フリント式のライターの着火音が安心するからだった。一口目を吸い込むと、自分の身体の中の肺のありかがわかる。

 

特に喜びもないまま二本目も吸い終わって、灰皿のふちで吸殻をねじ消す。指に移った煙の香りは好きじゃない。どうして煙草なんて吸っちゃったんだろうって毎回思う。口の中も苦くて、デスクに戻って飲みさしのカフェオレを口に含んだ。

 

残り数分の昼休みを微妙に持て余して、またタイムラインを繰る。「本日昼12時よりチケット一般発売開始!」の文字に指を止めると、アンティーカのライブのチケットの一般がさっき始まったみたいだった。ローチケを見てみると残席余裕ありの表示が出ていて、珍しいな、と思う。

いつもならFC先行と先行抽選でほとんどのチケットが捌けて一般発売なんて瞬殺なのに、やっぱり今回のワンマンは今までで一番大きいキャパで挑戦すると言っていたから事情が違うんだろう。公演まで日はあるから埋まらないなんてこともないだろうけど。

ふと、空席のあるライブの空想が浮かんでくる。たとえば後ろの数列が空いてしまったとして、アンティーカ本人たちには見えるんだろうか。

これまでファンクラブに入っていないことと一般ではチケットが取れないことを言い訳にぬるい在宅オタクをやっていたけど、推しが、初めてやる規模の大きな会場で、空席を見つけてしまったら、とひとつひとつの要素を重ねていったら、指が勝手にローチケのログイン画面に進んでいた。学生時代に登録したアカウントをiPhoneが覚えていて、あっさりログインできてしまう。

一席埋めたところで何になるの、と冷笑するわたしを、iPhoneのカード番号自動入力機能がまたあっさりと突破していく。昼休みがギリギリ終わらないうちにチケット購入完了画面までたどり着けてしまった。

電子チケットだから席がわかるのはまだ先だけど、見やすいところは先行で埋まっているだろうからわたしが取れたのなんてたぶん後ろの端っこだろう。これまで円盤でしか見てこなかった客席のペンライトのひとつになれるのだという感慨と、推しの視界には別に入らないのだろうなという冷静さが同居していた。メンバーMCの合いの手に推しの名前を叫んだりするやつも、ちょっとやってみたいけど、声が届くような席ではないのだろう。

「…………あー」

のろのろと仕事に戻りながら、鳴き声みたいな声が口から出た。カフェオレで上書きした苦い口。肺の奥に滞る煙の匂い。このまま推しの名前を呼んだら、この苦さが追いかけてくるのか。

 

「戸山さん、最近喫煙所にいなくない?」と同僚に聞かれて、きんえんちゅー、とだけ答えた。ライブはもう明日まで迫っていて、チケットは予定枚数終了になっていた。

 

電子チケットに表示された席は案の定二階席の後ろから3列目で、肉眼で推しの表情がわかるかどうか怪しかった。でも、アンティーカのグッズに身を包んだ人がたくさんいて、ここにいる誰もが浮き足立っていて、ここに自分が存在していることがうれしかった。

開演時間になって会場が暗転してからのことは、目まぐるしくて記憶がちかちかしている。息つく暇もなく大好きな曲だけが惜しげもなく目の前で披露されていく。スクリーンに大写しになるそれぞれの决め顔は、これまで小さな画面で見てきたどの表情よりも説得力のあるときめきだった。

「それじゃあ、初めてアンティーカを見るお客さんもいると思うので、ここで改めて自己紹介をば! みんなの声、ちゃんと聞かせてね〜?」

三峰のいたずらっぽい笑顔に、客席が沸き立つ。それぞれの自己紹介に合わせて、会場全体のペンライトがピンク、むらさき、緑、青に染まる。隣の三峰推しのお兄さんはよく通る声で、きっとここからでも三峰に聞こえているのだろうと思った。

「そして最後は〜、きりりん!」

「はい……! 幽谷霧子です、今日は来てくれてありがとうございます……!」

……ああ。もう。席が遠いとかそんなのどうでもよくて、この透明で静謐な推しを直接見ることはこんなにも胸にくることだった。わたしの心の中の聖域にいるたったひとりの推しが今ここにいる。わたしの口は、声は、喉は、肺は、煙草を吸うためじゃなく今日のためにあった。だから、

「き、きりこー……!!」

苦い煙の味がしないこの声は、霧子にきっと届いたと思う。