アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

プロポーズされた。二番目に好きな人に。

プロポーズされた。二番目に好きな人に。

一番はもちろん愛依サマだけど、愛依サマはアイドルだからお付き合いできない。アイドルのファンをやっていない時間のわたしはあまりにも普通の二十代女性で、わたしが結婚することが前提の親からの発話も、マッチングアプリで相手を探してまで恋愛を強制してくる広告も、愛依サマを好きになる前から付き合っている彼氏も、わたしに年相応に普通に生きろと言外の圧をかけてきた。

彼氏は優しい人だ。わたしにはもったいないくらいに。わたしが愛依サマの現場に通うことに嫌な顔もしないし、恋人を喜ばせるサプライズも欠かさないような人。「俺がやっても似合わないってわかってるんだけどさ」と言いながら映画みたいにひざまずいて指輪のケースを開いてきたとき、わたしはついに来たか、とまず思って、遅れて今日が付き合って何年目だかの記念日であることに気が付いた。でも、こう言わなきゃいけないような気がして、「今日記念日だって覚えててくれたの?」と言って、箱の中の指輪を見た。

映画みたいに渡された指輪は、映画の小道具としていかにも婚約指輪の文脈を背負って出てくるような大粒のダイヤがついたデザインだった。彼氏の中のわたしはベタな演出が好きだ。彼氏がベタな演出をしてくるたびに実際より少し多めに喜び続けていたら、彼氏が好きなわたしはわたしの実像から少しずれてしまった。左の薬指に指輪を通されて胸がいっぱいって表情を浮かべながら、いくらしたんだろうこれ、ここにお金かけすぎるくらいなら一緒に温泉旅行とか行きたかったな、と余計なことが浮かんでは消えた。

彼氏のことは大好きで、それだけを理由にプロポーズを快諾できるならそれが一番だったけど、頭の中ではわたしが彼氏と結婚しないわけがないと思っている親の声やインスタグラムで配偶者マウントを取るようになってしまったかつての友達の声がわんわんうるさく響いて、彼氏が言ってくれた何かロマンチックな言葉を聞き返す羽目になった。「うれしくてぽーっとしちゃった、ごめんね」と頭の悪い謝罪が口をついて出る。

ひとしきり指輪を眺めて、傷ついちゃうのが怖いからと理由をつけてケースにしまって、「わたし結婚しても愛依サマに会いに行くけど、それでもいいの?」と聞いた。行ってもいい?とは聞かなかった。愛依サマを好きである気持ちに他人の許可なんて干渉させたくなかった。「もちろんいいに決まってるよ、趣味と生活は別物なんだから」と返ってきて、そうだ、普通趣味と生活は別物なんだ、と思い出した。愛依サマのリアコで、愛依サマと彼氏が同じ恋愛感情の直線上にいることは普通じゃないんだ。わたしがあんまり普通でないことを実感するのは怖くて、愛依サマのことが世界で一番好きってことは愛依サマ以外には言わないようにして、普通のふりして生きてきたんだった。

「明日握手会あるから、早速になっちゃうけど行ってくるね。今日泊まっていってもいい?」「もとからそのつもりでしょ。明日着る服ある? うちにあるものは洗濯してあるけど」「ありがと、グッズも持ってきてるから準備万端」

愛依サマはアイドルだから、一方的に好きになるしかない。アイドルを推すことは、普通恋愛感情とは別の感情。普通の人はどれだけアイドルが好きだからって、付き合っている人からのプロポーズを断ったりしない。わたしは周りから見れば、ちゃんと普通。

 

彼氏の家の洗面台でメイクを万全に済ませて、今日話したいことを考えながら池袋までの経路を調べる。「指輪、していったら?」と声をかけられて、愛依サマカラーの勝負服にはあんまり合わないけどな、と思いながら、無碍にするのも悪くてへらへらうなずいた。彼氏は嬉しそうにわたしの指に指輪を通してくれた。

愛依サマの握手会やお渡し会にはもう何回行ったかわからなくて、いろんなことを話した。愛依サマのクールな中にある人間らしい熱が好きなこと、衣装でお腹が冷えないか心配なこと、仕事が大変だったけど愛依サマの現場に来るためにがんばったこと。個人的な話もしているのに、彼氏がいることは、そういえば一度も話したことがない。

整番が早かったから、HMVに到着してすぐ待機列の前の方まで進んだ。コンパクトでメイクと前髪がヨレていないか確認していたらもう目の前まで順番が来てしまって、握手するときは外そうとなんとなく思っていた指輪がそのままになっていたのにギリギリで気づく。ケースにしまうのが無理ならとりあえずポケットに突っ込もう、と思ったのに、今日のスカートにはポケットがついていない。ああ、もう、しょうがないからこのままでいいか。

「メグ、今日も来てくれたんだ、ありがと」

ブースに入るなり愛依サマはわたしを見て言う。認知。名前呼び。うれしい。今日のヘアメめちゃくちゃいい、愛依サマのポニテ大好き。自分の口から出た「愛依サマぁ……」というふにゃふにゃの声が限界リアコのそれすぎる。

わたしの手を包むように握る愛依サマの手が、指輪に触れる。うわ、やっぱり外してくればよかった、と急に後悔が襲ってきて、考えてきた話題が全部飛ぶ。どうしよう、なにか言わなきゃ、いつもならわたしから話を振るって愛依サマもわかってくれているから、わたしが話し出すのを待たせてしまっている。

「あ、あのね、愛依サマ、この、指輪ね、昨日、彼氏にプロポーズされたんだ、結婚、するんだ」

違う、用意していたのはこんな話題じゃない。こんなの愛依サマに話すことじゃない。これまでずっと愛依サマが世界一大好きって言い続けてきたのに、結局別の人と付き合ってたんだって失望される? でも、でももし、愛依サマがこの指輪にほんの少しでも嫉妬する素振りを見せてくれたら、あたしのこと好きなんでしょ、結婚なんてやめなよって言ってくれたら、そうしたらわたし、この一瞬だけでも愛依サマと両想いだったことになれないかな、わたしが世界一好きな人は本当に愛依サマなんだよ。

時間が止まったように思考だけが動いて、自分の手が震えだすのがわかる。どうしたら自分の発言をなかったことにできるのかもうわからなくて、すがるように愛依サマの顔を見た。

「マジ!?」

ぱっと愛依サマの目が見開いて、その後いつものすんとした表情に戻る。

「ごめん、声大きくなっちゃった。でも、おめでとう。ほんとにおめでとう。絶対幸せになって。メグの人生のことあたしに教えてくれて、すごくうれしい」

愛依サマの手が、わたしの手をさらにぎゅっと握る。目元は落ち着いたまま、抑えきれないように唇が笑っていた。もし後ろに次のファンが並んでいなかったら、いつもの無表情を取っ払って大きく笑いながら抱きしめてくれるんじゃないかって思ってしまうような顔だった。

そうだ、わたしは愛依サマのこういうところが好きなんだった。すっごくクールだけど、ファンのことをちゃんと覚えていて、たまに友達みたいな距離感でリアクションしてくれるところ。わたしとの握手は手を包むように握ってくれるのだって、前にわたしが冷え性だって話したら、あっためてあげるって言ってくれたのがきっかけだった。

「けっ、結婚しても、愛依サマのこと好きだから、これからも全然行くから、ライブも握手会も」

剥がされながらたどたどしく絞り出した言葉に、愛依サマは「うん、待ってる」と答えてくれた。平坦で短い返事だったけど、それが肯定と歓迎以外の何物でもないことは、何度も現場に通ったわたしが一番知っていた。

 

ルミネのパウダールームに避難して、指輪を外してケースに入れて、ケースをトートバッグの底のほうにしまう。愛依サマが指輪に触れた瞬間に思ったいくつものことが断続的にフラッシュバックする。わたしは大好きな人になんてことを押し付けたんだろう。公には恋愛から遠ざけられながらわたしたちの感情を受け取ってくれるアイドルの愛依サマに対して、愛依サマが一番好きって言いながら一番じゃない人と結婚することを報告して、しかもそれを止めてほしいって期待するなんて。でも、じゃあ、絶対恋人になれない愛依サマに一生片想いする勇気なんてわたしにあった? あったらこんなところで泣いてない。

滲んでしまったアイラインはどうにも直せそうになかった。どうせ愛依サマのためのメイクだったから、今さらどれだけ崩れたってもういい。

次から彼氏に会う時は、指輪つけるの忘れないようにしなきゃいけないんだ。