アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

宇宙まで飛んでいく風船

「時間の無駄だったでしょう、お互いに」

いつも通りの純喫茶デートだと思っていたら唐突に別れ話を告げられた。彼女はフリル過多のブラウスと尋常じゃなく華奢な体格とは裏腹にブラックコーヒーしか頼まなくて、ディズニーランドにもライブハウスにも一人で行くような子で、僕は付き合っている間一度も時間の無駄だなんて思ったことはなかった。

「お互いに?」

やり直そう、なんて言葉で彼女を引き留められるはずがないことはわかっていた。自分の意志に従う引力が強いところを好きになったから。何を考えているかわからなくて一人でどこへでも行けてしまう彼女に必死でアプローチして、やっと興味を持ってもらえて付き合えたのに、付き合ってからも何を考えているかはわからなくて、一緒に行ったすべての場所に彼女は一人でも行けるだろうということだけはわかっていた。

別れの言葉が胸に染み込んでいく間に彼女は伝票を持ってレジに歩いて行ってしまって、最後まで格好すらつけさせてもらえなかったことを遅れて理解した。彼女にとって僕は時間の無駄だった。何を考えているかわからなくても嘘はつかない彼女から出た言葉だから、それだけは事実だった。

 

「まーた振られたんかお前……」

鳥貴族で親友に近況を報告したら、シンプルに呆れた顔を向けられた。これまで三人付き合って、三人ともに長く続くことなく振られている。僕は毎回新しくへこみ直しているのに、他人事になると見慣れるものなのか。

「おんなじような子ばっかり好きになるからだよ、歴代彼女全員自分の意志で誰にも飼われない猫みたいな感じじゃん、お前がエキセントリックバンドマンとかならまだしも普通に大学出て普通に会社員やってるんじゃそりゃ秒で飽きられるだろ」

「れんぞくパンチやめてくれ」

好きになる子が好きになるのは最終的には僕みたいな保守的な人間じゃない。前の彼女が今付き合っているのが水タバコ屋の店員だと聞いたときの謎の劣等感をまた思い出す。

「彼女ほしいならもっとお前を好きになってくれそうな子探せばいいじゃん」

「好きになった子としか付き合いたくない、彼女がほしいという動機ありきで相手を探すのは不誠実だ」

「めんどくせえ……」

正直、好みのタイプの傾向がこのまま変わらなければ一生結婚できないような気がする。結婚願望があるのに結婚願望と無縁そうな人が好きなの、バグだろ。

「まあ飲め、忘れろ。そして俺の推しの話を聞け」

「お前はいいよないつも楽しそうで」

学生時代はモテることを一番のステータスにしていた親友は、お互い就職してしばらく会わない間にドルオタになっていた。慣れない仕事がしんどかったのを救ってもらったとか、アイドルもファンも夢だとわかったうえで夢を見せ、見せてもらう関係が尊いんだとか、一緒に飲むたびにいろいろ語っている。

「この前ファンクラブ会員がPV撮影に参加できる企画があってさー、当たったんだよそれに。ド平日だったけど有休取って行ったわ」

「ああ、そう……」

僕の有休の使い道なんてデートしかなかったからもうわざわざ休みを取る理由がなくなったというのに、なんだこの差は。彼女ーーもう元カノだーーが何か誘ってくれるかもしれないと思ってウキウキで取った来月の僕の誕生日の有休はどうしたらいいのだろう。

「新曲も公開前に聴けたし、後ろ姿とはいえPVに映れたし、まじで最高だったんだよ。しかも最後にゲリラで握手会まであって。円香ちゃん相変わらず塩だったけど塩なのに俺の顔覚えててくれてんのヤバない?」

全力で応援して、応援される側もファンのことを覚えていて、そんな美しい構図が成り立つ世界があることが心の奥底に刺さる。こちとら僕と付き合っていた時間が無駄だったと言われたのに。無駄だったと言われてもまだ好きだったところばかり思い出すのに。

「おーい、社会人にもなって泣くなよ」

相槌を打ちながら泣き上戸の癖が出る。今日本で一番女々しくての歌詞に共感できるのは僕だと思った。

 

「帰れっか? 水飲んどけよー」

終盤は何を話したかもぼんやりしているけど結局終電まで飲んで、湿気っぽい電車の中でイヤホンをつける。俺の後頭部も映ってるから見ろ、と共有されたアイドルのPVのリンクを押して、親友の待ち受け画面に設定されている子が歌って踊っているのを初めて見る。あれだけ話を聞かされたというのに、4人組のアイドルだということをやっと認識した。

八重歯の子、闊達そうな子、親友の推し、と顔のアップが続いて、4人目が大写しになる。

ーーあ、だめだこれは、と再生を停止する。酔っていて情緒がぐちゃぐちゃだから、振られて感情がささくれているから、この4人目の子を直視してはいけない、と思った。大きくて何を考えているのかわからない目、飾り気がないのに透明な肌。親友の言っていた「アイドルに救われる」の意味がわかってしまう。これは元カノへの未練から来る気の迷いだ、と振り切ろうとするのに、一時停止された画面に映るあまりにも綺麗な両目が追いかけてくる。

停止したままのスクショを取って親友に送る。この子の名前、何。すぐに既読がつく。浅倉透。言われてみりゃお前好きそうすぎるな。うるせえ、と返して、浅倉透を画像検索にかける。トップに出てきた、スタイリッシュとは言い難い赤いジャージ姿の画像ですら、一緒に写っている周りの人間を飲み込んでいた。

明日の夜リリイベだけど来るか?という連絡に一晩考えさせてくれと返して、全部一時的な感情かもしれないと言い聞かせて水を飲んでベッドに入った。

 

目が覚めて時計を見たらもう昼で、昼だな、の次に考えたことは浅倉透のことだった。見透かされたように親友からは今夜ここへ来いとタワレコのイベント情報のリンクが送られてきていた。

わけもわからないままイベントスペースの後ろの方の席に座らされて、今日やるのがトークショーと特典会だと説明される。トークショーはわかるけど、特典会って何、と聞くと、親友はうれしそうに円香ちゃんと自分のツーショットチェキを見せてきた。

「特典会ってまあいろいろあるんだけど、こういうチェキを一緒に撮れたりもする。今回は特典券一枚だと希望メンバーと握手してちょっと話せるやつ。積めばサイン書いてもらえたりもするけどどうする? 言っとくけど特典券は一枚しかやらんからな」

「いや、一枚でいいよ……」

すでに親友の手には特典券の束が握られていて、これがドルオタか、と思う。いわゆる握手会というだけで緊張するのに、枚数を重ねるとどんどん豪華になるシステムらしい。初心者には早すぎる。

ほら、トークパート始まるぞ、と前を向かされてからのことは、正直あまり覚えていない。浅倉透というアイドルが隔てるものなく視界にいることを認識するだけで脳が処理落ちしていた。顔しか知らないのに、好きになっていいんだろうか。放っておいたらどこかへ飛んで行ってしまいそうな、これまで僕がひとつも繋ぎ止められなかった綺麗な存在を、また好きになっていいんだろうか。自問している時点で無駄な抵抗なのはわかっていた。

 

「今日も浅倉節炸裂してたな、まじでなんにも考えてないのか本当は宇宙のこととかも全部知っててあれなのか全然わからん」

感想が止まらない親友にあいまいな相槌を返す。浅倉透がどんな声だったか、どんな仕草をしていたかは思い出せても、和気あいあいとしたトーク内容にまでは頭が追い付かなかった。

「やっぱ浅倉のこと好きだろお前」

「いや、まだそれはわからない」

「俺にはわかるぞ、握手して確かめてこい。俺は円香ちゃんのとこ行くから終わったら合流な」

勝手がわからない僕を置いて親友は目当ての列に並びに行ってしまう。浅倉透列の札を持ったスタッフのところへ並んでしばらく進むと特典券のチェックをされて、長テーブル越しの浅倉透の前に通される。

「あっ…………」

放り投げるように差し出された手に、これが握手会だということを思い出す。反射的に手を伸ばすと、握られた手をゆらゆらと上下に揺らされる。

「初めて? 握手するの」

「あ、うん……いや、はい……」

こんなに接近しているのに、近づくほどに浅倉透の現実感が失われていく。

「震えてる、手。生きてるね。お互い」

「生きて……」

どういう意味なのか考えなければいけないような、言葉どおりで特に深い意味のないような言葉を解釈しあぐねているうちに、肩をつかまれて横に移動させられる。あ、ばいばい、と手を振る浅倉透を見て、握手の持ち時間が終わったのだとわかった。

握られていた手が強制的にほどかれて、子どもの頃買ってもらった風船から手を離してしまった時のことを急に思い出した。今さらどうしたって戻らない喪失感。アイドルなら会いに来ようと思えば来れる存在のはずなのに、なぜかもう二度と会えない気がした。

 

「どーだった、浅倉との握手。好きになっちゃった?」

円香ちゃんはさあ、と僕の返事も聞かずに続けようとする親友を遮って、まだ言語化できないままそれでも何かを言いたくて口を開く。

「浅倉……さん、好きっていうか、推せる?って思ったけどさ、あんなのすぐどっかに行っちゃうじゃん」

「ん? 別に仕事ブッチしたりするタイプじゃないよ、お目付役もいるし」

「いや、そうかもしれないけど、そうじゃなくて……誰にも繋ぎ止めておけない感じがして」

釈然としない顔のままの親友に説明するのを諦めて、今日まだ元カノのことを思い出していないことに気づく。手を離してしまった風船が惜しかったのは昨日までのことで、僕はもう、宇宙まで飛んでいく風船を地べたから見上げるだけでいいのかもしれなかった。