アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

宇宙まで飛んでいく風船

「時間の無駄だったでしょう、お互いに」

いつも通りの純喫茶デートだと思っていたら唐突に別れ話を告げられた。彼女はフリル過多のブラウスと尋常じゃなく華奢な体格とは裏腹にブラックコーヒーしか頼まなくて、ディズニーランドにもライブハウスにも一人で行くような子で、僕は付き合っている間一度も時間の無駄だなんて思ったことはなかった。

「お互いに?」

やり直そう、なんて言葉で彼女を引き留められるはずがないことはわかっていた。自分の意志に従う引力が強いところを好きになったから。何を考えているかわからなくて一人でどこへでも行けてしまう彼女に必死でアプローチして、やっと興味を持ってもらえて付き合えたのに、付き合ってからも何を考えているかはわからなくて、一緒に行ったすべての場所に彼女は一人でも行けるだろうということだけはわかっていた。

別れの言葉が胸に染み込んでいく間に彼女は伝票を持ってレジに歩いて行ってしまって、最後まで格好すらつけさせてもらえなかったことを遅れて理解した。彼女にとって僕は時間の無駄だった。何を考えているかわからなくても嘘はつかない彼女から出た言葉だから、それだけは事実だった。

 

「まーた振られたんかお前……」

鳥貴族で親友に近況を報告したら、シンプルに呆れた顔を向けられた。これまで三人付き合って、三人ともに長く続くことなく振られている。僕は毎回新しくへこみ直しているのに、他人事になると見慣れるものなのか。

「おんなじような子ばっかり好きになるからだよ、歴代彼女全員自分の意志で誰にも飼われない猫みたいな感じじゃん、お前がエキセントリックバンドマンとかならまだしも普通に大学出て普通に会社員やってるんじゃそりゃ秒で飽きられるだろ」

「れんぞくパンチやめてくれ」

好きになる子が好きになるのは最終的には僕みたいな保守的な人間じゃない。前の彼女が今付き合っているのが水タバコ屋の店員だと聞いたときの謎の劣等感をまた思い出す。

「彼女ほしいならもっとお前を好きになってくれそうな子探せばいいじゃん」

「好きになった子としか付き合いたくない、彼女がほしいという動機ありきで相手を探すのは不誠実だ」

「めんどくせえ……」

正直、好みのタイプの傾向がこのまま変わらなければ一生結婚できないような気がする。結婚願望があるのに結婚願望と無縁そうな人が好きなの、バグだろ。

「まあ飲め、忘れろ。そして俺の推しの話を聞け」

「お前はいいよないつも楽しそうで」

学生時代はモテることを一番のステータスにしていた親友は、お互い就職してしばらく会わない間にドルオタになっていた。慣れない仕事がしんどかったのを救ってもらったとか、アイドルもファンも夢だとわかったうえで夢を見せ、見せてもらう関係が尊いんだとか、一緒に飲むたびにいろいろ語っている。

「この前ファンクラブ会員がPV撮影に参加できる企画があってさー、当たったんだよそれに。ド平日だったけど有休取って行ったわ」

「ああ、そう……」

僕の有休の使い道なんてデートしかなかったからもうわざわざ休みを取る理由がなくなったというのに、なんだこの差は。彼女ーーもう元カノだーーが何か誘ってくれるかもしれないと思ってウキウキで取った来月の僕の誕生日の有休はどうしたらいいのだろう。

「新曲も公開前に聴けたし、後ろ姿とはいえPVに映れたし、まじで最高だったんだよ。しかも最後にゲリラで握手会まであって。円香ちゃん相変わらず塩だったけど塩なのに俺の顔覚えててくれてんのヤバない?」

全力で応援して、応援される側もファンのことを覚えていて、そんな美しい構図が成り立つ世界があることが心の奥底に刺さる。こちとら僕と付き合っていた時間が無駄だったと言われたのに。無駄だったと言われてもまだ好きだったところばかり思い出すのに。

「おーい、社会人にもなって泣くなよ」

相槌を打ちながら泣き上戸の癖が出る。今日本で一番女々しくての歌詞に共感できるのは僕だと思った。

 

「帰れっか? 水飲んどけよー」

終盤は何を話したかもぼんやりしているけど結局終電まで飲んで、湿気っぽい電車の中でイヤホンをつける。俺の後頭部も映ってるから見ろ、と共有されたアイドルのPVのリンクを押して、親友の待ち受け画面に設定されている子が歌って踊っているのを初めて見る。あれだけ話を聞かされたというのに、4人組のアイドルだということをやっと認識した。

八重歯の子、闊達そうな子、親友の推し、と顔のアップが続いて、4人目が大写しになる。

ーーあ、だめだこれは、と再生を停止する。酔っていて情緒がぐちゃぐちゃだから、振られて感情がささくれているから、この4人目の子を直視してはいけない、と思った。大きくて何を考えているのかわからない目、飾り気がないのに透明な肌。親友の言っていた「アイドルに救われる」の意味がわかってしまう。これは元カノへの未練から来る気の迷いだ、と振り切ろうとするのに、一時停止された画面に映るあまりにも綺麗な両目が追いかけてくる。

停止したままのスクショを取って親友に送る。この子の名前、何。すぐに既読がつく。浅倉透。言われてみりゃお前好きそうすぎるな。うるせえ、と返して、浅倉透を画像検索にかける。トップに出てきた、スタイリッシュとは言い難い赤いジャージ姿の画像ですら、一緒に写っている周りの人間を飲み込んでいた。

明日の夜リリイベだけど来るか?という連絡に一晩考えさせてくれと返して、全部一時的な感情かもしれないと言い聞かせて水を飲んでベッドに入った。

 

目が覚めて時計を見たらもう昼で、昼だな、の次に考えたことは浅倉透のことだった。見透かされたように親友からは今夜ここへ来いとタワレコのイベント情報のリンクが送られてきていた。

わけもわからないままイベントスペースの後ろの方の席に座らされて、今日やるのがトークショーと特典会だと説明される。トークショーはわかるけど、特典会って何、と聞くと、親友はうれしそうに円香ちゃんと自分のツーショットチェキを見せてきた。

「特典会ってまあいろいろあるんだけど、こういうチェキを一緒に撮れたりもする。今回は特典券一枚だと希望メンバーと握手してちょっと話せるやつ。積めばサイン書いてもらえたりもするけどどうする? 言っとくけど特典券は一枚しかやらんからな」

「いや、一枚でいいよ……」

すでに親友の手には特典券の束が握られていて、これがドルオタか、と思う。いわゆる握手会というだけで緊張するのに、枚数を重ねるとどんどん豪華になるシステムらしい。初心者には早すぎる。

ほら、トークパート始まるぞ、と前を向かされてからのことは、正直あまり覚えていない。浅倉透というアイドルが隔てるものなく視界にいることを認識するだけで脳が処理落ちしていた。顔しか知らないのに、好きになっていいんだろうか。放っておいたらどこかへ飛んで行ってしまいそうな、これまで僕がひとつも繋ぎ止められなかった綺麗な存在を、また好きになっていいんだろうか。自問している時点で無駄な抵抗なのはわかっていた。

 

「今日も浅倉節炸裂してたな、まじでなんにも考えてないのか本当は宇宙のこととかも全部知っててあれなのか全然わからん」

感想が止まらない親友にあいまいな相槌を返す。浅倉透がどんな声だったか、どんな仕草をしていたかは思い出せても、和気あいあいとしたトーク内容にまでは頭が追い付かなかった。

「やっぱ浅倉のこと好きだろお前」

「いや、まだそれはわからない」

「俺にはわかるぞ、握手して確かめてこい。俺は円香ちゃんのとこ行くから終わったら合流な」

勝手がわからない僕を置いて親友は目当ての列に並びに行ってしまう。浅倉透列の札を持ったスタッフのところへ並んでしばらく進むと特典券のチェックをされて、長テーブル越しの浅倉透の前に通される。

「あっ…………」

放り投げるように差し出された手に、これが握手会だということを思い出す。反射的に手を伸ばすと、握られた手をゆらゆらと上下に揺らされる。

「初めて? 握手するの」

「あ、うん……いや、はい……」

こんなに接近しているのに、近づくほどに浅倉透の現実感が失われていく。

「震えてる、手。生きてるね。お互い」

「生きて……」

どういう意味なのか考えなければいけないような、言葉どおりで特に深い意味のないような言葉を解釈しあぐねているうちに、肩をつかまれて横に移動させられる。あ、ばいばい、と手を振る浅倉透を見て、握手の持ち時間が終わったのだとわかった。

握られていた手が強制的にほどかれて、子どもの頃買ってもらった風船から手を離してしまった時のことを急に思い出した。今さらどうしたって戻らない喪失感。アイドルなら会いに来ようと思えば来れる存在のはずなのに、なぜかもう二度と会えない気がした。

 

「どーだった、浅倉との握手。好きになっちゃった?」

円香ちゃんはさあ、と僕の返事も聞かずに続けようとする親友を遮って、まだ言語化できないままそれでも何かを言いたくて口を開く。

「浅倉……さん、好きっていうか、推せる?って思ったけどさ、あんなのすぐどっかに行っちゃうじゃん」

「ん? 別に仕事ブッチしたりするタイプじゃないよ、お目付役もいるし」

「いや、そうかもしれないけど、そうじゃなくて……誰にも繋ぎ止めておけない感じがして」

釈然としない顔のままの親友に説明するのを諦めて、今日まだ元カノのことを思い出していないことに気づく。手を離してしまった風船が惜しかったのは昨日までのことで、僕はもう、宇宙まで飛んでいく風船を地べたから見上げるだけでいいのかもしれなかった。

SHINPEI・団長・歌広場のお前はまだ本当の〇〇を知らないvol.3〜団長よ、お前はまだ本当のダイエットを知らない〜

2024/4/1(月)@新宿ロフトプラスワン

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BREAKERZSHINPEIさん、NoGoD・団長、ゴールデンボンバー歌広場淳くんのおしゃべりバンドマン三人組によるトークライブ、vol.3。

整番まさかの一桁で最前下手へ。

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vol.1,2とも現地は当たってたけど後ろの方で観てたので、ロフトプラスワンの狭さもあいまって脳がバグるほど距離が近い…!2メートル先に淳くんがいる…

登場時の淳くん、前髪のコンディションが最高すぎてほんと今日最前取れてよかったって泣きそうになった。テーマがダイエットだからって張り切ってダンスジャージで来たらほかの二人が普通の格好で来て、初手から空回ってた淳くん良かった。

埼玉は岩槻が生んだ奇跡の肥満児・団長のエピソードトーク、どこを切り取っても永遠に笑い転げてしまった。淳くんが出るから来てるのに、一番爆笑してるの団長が話してる間かもしれない。埼玉の選ばれし肥満児童にのみ渡される「砂時計」という体重記録冊子、本当に存在するんですか…?

あと、ダイエットガチ勢で関連資格も取りまくってるSHINPEIさんのスライドが普通にダイエットセミナーのそれで、メモを持ってこなかったことを後悔した。糖質を一ヶ月抜いて自分の身体のキャパを確認する作業とその後の糖質の少量からの再導入、体調のコントロールにも役に立ちそうでやってみたくなった。アーカイブ買って復習しようかな…

淳くんパートのドヤ顔ダイエット後上裸写真もめっちゃ好きで、本人たちは冗談で言ってたけどほんとにグッズ化しませんかね…いい写真だったよ…

 

淳くんを太っていると思ったことがないからなんであんなに痩せたがるのか不思議だったけど、「俺の視界にはいつもあの美しいマッチョ・樽美酒研二がいるから」と言っていて、すごい功罪を持った白塗りもいるものだな…と思った。これだけ長いこと推し続けていてもまだ推しについて知らないこといっぱいあるなあ。話してくれてうれしかった。

 

最前でしか見れない景色(団長の白塗りのムラのなさとか、SHINPEIさんの腕の血管とか、淳くんの横顔見放題とか)をたくさん見れてお腹いっぱいになる2時間半だった。淳くんの顔ガン見しながら話聞いてたら何度か不意に目が合った気がして死ぬかと思った。SHINPEIさんの話聞いてる時に両手をほっぺに当てて頬杖つく淳くん、あざとアラフォー代表選手だった。絶対絶対これからもこのトークライブ続けてほしい。あとイベントのタイトル長いから公式ハッシュタグ決めてくれ。(最前にいたんだから団長あたりに言えばよかったけど勇気が出なかった…)

 

帰りの電車での自分用備忘の殴り書きだけど、わたしの4月1日はとてもいい日だった。

 

↓配信アーカイブリンクも貼っておきます

https://twitcasting.tv/loftplusone/shopcart/291229

まどかと円香

鏡を見るたびに顔がかわいくなさすぎる。常に眠そうなまぶた、短いまつ毛、小さくて低い鼻、血色の悪い頬、バランスの悪い大きい頭蓋骨。自分の顔が嫌いすぎて鏡を直視できない。

他のひとは自分をもっとかわいく見せるためにメイクをしているのに、わたしだけマイナスをゼロにするためにメイクをしている。どんなコンプレックス克服メイク動画を真似しても、動画と同じ仕上がりになったことなんてない。大嫌いなすっぴんを我慢して凝視しながらどれほどがんばっても、必死でいびつに取り繕った嫌いな顔ができあがるだけ。

それでもメイクするのをやめないのは外を歩くための免罪符がほしいからだし、街でかわいい女の子たちとすれ違う時は心の中で何かに謝りながらうつむいて歩く。わたしには顔2005の子みたいに整形を決意する勇気もない。

誰かに面と向かってかわいくないと言われたことがあるわけでもないのにずっと自分の顔が好きじゃないのはわたしが卑屈だからで、わたしがかわいくなくてもみんな案外普通に接してくれることはさんざん経験してわかっているのに、ずっと自分のかわいくなさに囚われている。ネイルも華やかな服も香水もかわいいひとの特権のような気がして手を出せない。挑戦して似合わなかったときに傷つく方が怖い。

 

4限が終わって、駅ビルのロフトに行く。赤系の、あまりゴテゴテしていないレターセットが欲しい。円香ちゃんへファンレターを書いているときは、自分の顔のことなんか忘れられる。最初は円香ちゃんがテレビに出ていた時、自分の名前が呼ばれたのかと思ってびっくりしたんだった。同じまどかって名前でもこんなに違うんだってくらいきれいで、冷たそうだけどノクチルのメンバーといるときはちょっとお茶目で、それまでよくわからなかった推しって概念が理解できるようになった。

一年くらい前、初めて送ったファンレターには、わたしもまどかという名前であることも書いた。特に好きでもなかった名前だったけど、円香ちゃんと同じであることはうれしかったし、円香ちゃんも同じ名前のファンがいるんだなって思ってくれないかなという期待もあった。ファンレターなんて山ほどもらうだろうに浅はかな期待、と卑屈な部分のわたしが言ったけど、手紙の上なら顔面が必要ないから少し強気でいられた。

新しく買った便箋には、この前のFNS歌謡祭でのカバーがすごくよかったこととか、円香ちゃんがアンバサダーをやったネイルポリッシュを買ったけど使えていないこととかを書いた。顔がこんななのに、爪にあんな深くて大人っぽい赤色を塗る度胸なんてない。書きながらなんとなく、円香ちゃんがきれいならもうそれで何もかもいいような気もした。わたしの顔はどうがんばってもわたしの顔で、何をしても好きになれそうにないから、同じ名前の円香ちゃんを応援することだけがわたしの人生でもよくないかな。こんな投げやりなことを書いてもいいのか迷ったけど、つい寝る前の勢いで封をしてしまって、赤いバラのイラストの切手を貼ってポストに放り込んだ。

 

Gmailのアプリを開いたら見覚えのないアドレスから【抽選結果のお知らせ】という件名のメールが来ていて、何か今当落待ちのライブあったっけ、と思って開いてみたら、そこには「この度はノクチルMV撮影エキストラにご応募いただきありがとうございました。厳正なる抽選の上、ご当選となりましたので、下記日時及び詳細をご確認いただき、当日は身分証及びファンクラブ会員証を忘れずにお持ちください。」の文面があった。

そうだ、新曲のMVにライブハウスのシーンがあって、観客役のエキストラをファンクラブから募集するという夢みたいな企画に応募していたんだった。演出的にエキストラは後ろ姿だけで顔は映さないって要項に書いてあったから、万が一当たっても大丈夫だと思っていたけど、本当に当たるなんて。倍率えぐそうだったのに…。

ドレスコード守秘義務、注意事項とメールに書いてあるすべてに何度も目を通して、今までで一番近くで円香ちゃんを見られるかもしれないことに半分ときめいて、半分死にたくなった。もし円香ちゃんに近づいたら、その分円香ちゃんからもわたしが見えてしまうということだ。これまでライブには行ってもお渡し会や握手会には絶対行かなかったのは、円香ちゃんに顔を見られたくなかったから。なにこの顔って円香ちゃんに思われたらどうしよう。円香ちゃんがそんなこと思うわけない。でも。

ぐだぐだ考えているうちに当日が来てしまった。小さなライブハウス然とした撮影スタジオに集まってくるほかのノクチルファンの女の子が全員めちゃくちゃかわいく見えて、またうつむく。発売前の新曲を先に聴けるせっかくの機会なのに、こんな顔である辛さが今もずっと首元にのしかかってくる。

撮影機材に囲まれた客席に通されると、新曲らしき聴いたことのない曲のインストがもう流れていて、まだ誰もいないステージを見るだけでライブの開演待ちと同じ気分になる。目立たないように後ろの壁際に陣取ったけど、それでも今までのどのライブよりもステージとの距離が近い。だけどこれはライブじゃないから、「メンバーさん入りまーす」というスタッフの一声だけで暗転もなくノクチルが全員ステージに揃う。ただ袖から歩いてきただけなのに空気がざわっと書き換えられて、客席から悲鳴が上がった。円香ちゃんはスンとした顔で軽く手を振っていた。あんまりにもきれいな本物だ。前の方にいるファンの子が「まどかー!」と呼んだのが聞こえて、わたしの中のまどかはもうあの美しい円香ちゃんだけでいい、という気持ちがまた湧いてくる。

ライブハウスのシーンはAメロからBメロで使用されること、タイトルは漏洩対策でこの場でも非公開であること、あとはまあ好きに盛り上がってくれればいいこと、とゆるくアナウンスが入って、メンバーの挨拶もそこそこに一回目の撮影が始まる。ファンが見ているとはいえ、目の前のファンを完全には意識しない円香ちゃんを見るのは初めてだった。ライブの時とはまた違う雰囲気なのはカメラに撮られるためのダンスだからなのかなとか、やっぱり無表情なわけじゃ全然ないんだよな、とか、円香ちゃんに釘付けになりながら考える。

同じAメロBメロをこんなに何回も撮るのか、と驚くくらい何度もキューとカットが入って、カットのたびにヘアメイクさんがノクチルのもとに駆け寄る。MVの最初から最後までずっと乱れないアイドルの前髪はこうやってできているんだ。きれいなものをきれいに保つことは、きれいじゃないものにきれいなふりをさせるよりずっと大事な行為だと思った。

円香ちゃんを目で追うのに夢中になっていたら最後のカットがかかって、これで撮影終了だと案内された。すごい体験だったな、当たってよかったな、と思って帰ろうとしたら、雛菜ちゃんが突然「みんなこのまま帰っちゃうの~? せっかく来たんだから雛菜たちと握手していけば~?」と客席に向かってMCを始めた。すっかり帰る雰囲気だったファンが全員元の位置に戻る。小糸ちゃんとマネージャーらしきスーツのひとが慌てて雛菜ちゃんを止めに入ったけど、一度言ったものを引っ込められるわけもなくておろおろしていた。

「いいじゃん、しようよ握手会」

「ギャラも出ないのに来てくださったんですし、それくらいいいのでは」

透ちゃんと円香ちゃんも雛菜ちゃん側についてしまって、困り果てたマネージャーさんが「か、会場に確認を取りますので少々お待ちください……!」とどこかへ消えていった。なんか、今まさにノクチルというユニットを見ているな、という気持ちになった。握手は怖いから先に帰ろうと思ったのに、周りを見渡したら誰一人会場を出て行かなくて、帰るに帰れない状況にいるのに気づいたのはそのあとだった。あれ、どうしよう、これ下手すると強制握手会になる?

「あまり時間は取れませんが、会場さんOKとのことですので退場の際に希望メンバーひとりと握手していただけます! 終わり次第早めのご退場にご協力をお願いいたします!」

歓声の上がる客席の隅で、わたしだけが絶望していた。今まで避け続けていた間近での接触がこんなかたちで襲ってくるなんて。円香ちゃんに顔を見られたくない。直接認識されたくない。手紙だけ送れればそれでよかったのに。

「樋口円香との握手希望の方はこちらの列です!」

誰かの列に並ばないと出られないならそれは円香ちゃん以外ありえなくて、円香ちゃんと話せる、円香ちゃんを近くで見れる、でも、わたしのこんな顔を見てほしくない、と矢印がめちゃくちゃな気持ちでいっぱいいっぱいになる。それなのに、列はどんどん円香ちゃんに向かって進む。

「ま、円香、ちゃん……」

「……こんにちは」

逃げる間も与えられずに円香ちゃんの目の前に放り出された。こんなに近くで見ても真珠みたいに白くてきれいな肌。同じ人間だなんてとても思えない。たくさんのファンと握手してきたんだからいちいちわたしの顔なんて覚えるわけないだろうし、絶対に覚えてほしくなかった。

「わたし、わたしもまどかっていうんです」

黙ってしまったら円香ちゃんが困るから、必死で話題を探した。

「そうですか、同じですね。いつも手紙をくれるまどかさんですか?」

「……え?」

ざっと血の気が引く。山ほどもらうファンレターのひとつひとつなんか覚えているわけないって、思ってたのに。円香ちゃんに認識されてしまっている?

「そう、です、でも、わたしの人生の「まどか」は、円香ちゃんだけでいいなってさっき思って、わたしなんか全然、円香ちゃんみたいにかわいくないし、性格も暗いし、ずっと円香ちゃんだけ見ていたい、です」

焦れば焦るほどいらないことを話してしまう。いつも応援してますって、これからもがんばってくださいって、当たり障りのないことだけ言えばよかったのに。何の感情かわからない涙が出てくる。

「泣かないでください。あと、あなたがまどかであることを私に背負わせないでください」

「え……っと、あの」

何を言われたかわからなかった。でも、円香ちゃんが少しだけ眉をひそめたように見えて、握手をしている手が強張る。

「次はちゃんと、まどかと円香としてお話ししましょう」

手を離した時はもう円香ちゃんの表情は和らいでいて、すぐ次のひととの握手に移っていた。退場を急かされて、嘘みたいだった空間から屋外の現実に連れ戻される。

 

呆然とした身体で自動操縦みたいに家に帰る。手を洗って、洗面所の鏡を見る。

『あなたがまどかであることを私に背負わせないでください』

円香ちゃんの声が耳の奥で何度も再生される。円香ちゃんがどういうつもりで言ったのか全部はわからないけど、心の底を見透かされて、怒られたような気がした。

ヘアバンドで髪をまとめて、クレンジングオイルでメイクを落とす。大嫌いな顔が洗面台の明かりに照らされる。わたしに消費されるファンデーションが気の毒になる。

『次はちゃんと、まどかと円香としてお話ししましょう』

あれは、また来てねという意味が含まれていたと思っていいんだろうか。かわいくないまま生きるのが辛くて、円香ちゃんに自分を肩代わりしてもらおうとしていた人間に、またお話ししようと言ってくれたんだろうか。

洗顔フォームを泡立てる。せめて、少しでも素肌がきれいになるように、いつもより丁寧に丁寧に洗う。ぬるま湯で流した顔を、持っている中で一番やわらかいタオルで拭く。

わたしにはもったいないと思って使えなかった、円香ちゃんが使っているのとお揃いの化粧水を棚の奥から引っ張り出して、初めて使った。洗い立ての肌が素直に化粧水を吸い込んでいく。次に円香ちゃんと話すときは、笑って自分の名前を言えますように。

プロポーズされた。二番目に好きな人に。

プロポーズされた。二番目に好きな人に。

一番はもちろん愛依サマだけど、愛依サマはアイドルだからお付き合いできない。アイドルのファンをやっていない時間のわたしはあまりにも普通の二十代女性で、わたしが結婚することが前提の親からの発話も、マッチングアプリで相手を探してまで恋愛を強制してくる広告も、愛依サマを好きになる前から付き合っている彼氏も、わたしに年相応に普通に生きろと言外の圧をかけてきた。

彼氏は優しい人だ。わたしにはもったいないくらいに。わたしが愛依サマの現場に通うことに嫌な顔もしないし、恋人を喜ばせるサプライズも欠かさないような人。「俺がやっても似合わないってわかってるんだけどさ」と言いながら映画みたいにひざまずいて指輪のケースを開いてきたとき、わたしはついに来たか、とまず思って、遅れて今日が付き合って何年目だかの記念日であることに気が付いた。でも、こう言わなきゃいけないような気がして、「今日記念日だって覚えててくれたの?」と言って、箱の中の指輪を見た。

映画みたいに渡された指輪は、映画の小道具としていかにも婚約指輪の文脈を背負って出てくるような大粒のダイヤがついたデザインだった。彼氏の中のわたしはベタな演出が好きだ。彼氏がベタな演出をしてくるたびに実際より少し多めに喜び続けていたら、彼氏が好きなわたしはわたしの実像から少しずれてしまった。左の薬指に指輪を通されて胸がいっぱいって表情を浮かべながら、いくらしたんだろうこれ、ここにお金かけすぎるくらいなら一緒に温泉旅行とか行きたかったな、と余計なことが浮かんでは消えた。

彼氏のことは大好きで、それだけを理由にプロポーズを快諾できるならそれが一番だったけど、頭の中ではわたしが彼氏と結婚しないわけがないと思っている親の声やインスタグラムで配偶者マウントを取るようになってしまったかつての友達の声がわんわんうるさく響いて、彼氏が言ってくれた何かロマンチックな言葉を聞き返す羽目になった。「うれしくてぽーっとしちゃった、ごめんね」と頭の悪い謝罪が口をついて出る。

ひとしきり指輪を眺めて、傷ついちゃうのが怖いからと理由をつけてケースにしまって、「わたし結婚しても愛依サマに会いに行くけど、それでもいいの?」と聞いた。行ってもいい?とは聞かなかった。愛依サマを好きである気持ちに他人の許可なんて干渉させたくなかった。「もちろんいいに決まってるよ、趣味と生活は別物なんだから」と返ってきて、そうだ、普通趣味と生活は別物なんだ、と思い出した。愛依サマのリアコで、愛依サマと彼氏が同じ恋愛感情の直線上にいることは普通じゃないんだ。わたしがあんまり普通でないことを実感するのは怖くて、愛依サマのことが世界で一番好きってことは愛依サマ以外には言わないようにして、普通のふりして生きてきたんだった。

「明日握手会あるから、早速になっちゃうけど行ってくるね。今日泊まっていってもいい?」「もとからそのつもりでしょ。明日着る服ある? うちにあるものは洗濯してあるけど」「ありがと、グッズも持ってきてるから準備万端」

愛依サマはアイドルだから、一方的に好きになるしかない。アイドルを推すことは、普通恋愛感情とは別の感情。普通の人はどれだけアイドルが好きだからって、付き合っている人からのプロポーズを断ったりしない。わたしは周りから見れば、ちゃんと普通。

 

彼氏の家の洗面台でメイクを万全に済ませて、今日話したいことを考えながら池袋までの経路を調べる。「指輪、していったら?」と声をかけられて、愛依サマカラーの勝負服にはあんまり合わないけどな、と思いながら、無碍にするのも悪くてへらへらうなずいた。彼氏は嬉しそうにわたしの指に指輪を通してくれた。

愛依サマの握手会やお渡し会にはもう何回行ったかわからなくて、いろんなことを話した。愛依サマのクールな中にある人間らしい熱が好きなこと、衣装でお腹が冷えないか心配なこと、仕事が大変だったけど愛依サマの現場に来るためにがんばったこと。個人的な話もしているのに、彼氏がいることは、そういえば一度も話したことがない。

整番が早かったから、HMVに到着してすぐ待機列の前の方まで進んだ。コンパクトでメイクと前髪がヨレていないか確認していたらもう目の前まで順番が来てしまって、握手するときは外そうとなんとなく思っていた指輪がそのままになっていたのにギリギリで気づく。ケースにしまうのが無理ならとりあえずポケットに突っ込もう、と思ったのに、今日のスカートにはポケットがついていない。ああ、もう、しょうがないからこのままでいいか。

「メグ、今日も来てくれたんだ、ありがと」

ブースに入るなり愛依サマはわたしを見て言う。認知。名前呼び。うれしい。今日のヘアメめちゃくちゃいい、愛依サマのポニテ大好き。自分の口から出た「愛依サマぁ……」というふにゃふにゃの声が限界リアコのそれすぎる。

わたしの手を包むように握る愛依サマの手が、指輪に触れる。うわ、やっぱり外してくればよかった、と急に後悔が襲ってきて、考えてきた話題が全部飛ぶ。どうしよう、なにか言わなきゃ、いつもならわたしから話を振るって愛依サマもわかってくれているから、わたしが話し出すのを待たせてしまっている。

「あ、あのね、愛依サマ、この、指輪ね、昨日、彼氏にプロポーズされたんだ、結婚、するんだ」

違う、用意していたのはこんな話題じゃない。こんなの愛依サマに話すことじゃない。これまでずっと愛依サマが世界一大好きって言い続けてきたのに、結局別の人と付き合ってたんだって失望される? でも、でももし、愛依サマがこの指輪にほんの少しでも嫉妬する素振りを見せてくれたら、あたしのこと好きなんでしょ、結婚なんてやめなよって言ってくれたら、そうしたらわたし、この一瞬だけでも愛依サマと両想いだったことになれないかな、わたしが世界一好きな人は本当に愛依サマなんだよ。

時間が止まったように思考だけが動いて、自分の手が震えだすのがわかる。どうしたら自分の発言をなかったことにできるのかもうわからなくて、すがるように愛依サマの顔を見た。

「マジ!?」

ぱっと愛依サマの目が見開いて、その後いつものすんとした表情に戻る。

「ごめん、声大きくなっちゃった。でも、おめでとう。ほんとにおめでとう。絶対幸せになって。メグの人生のことあたしに教えてくれて、すごくうれしい」

愛依サマの手が、わたしの手をさらにぎゅっと握る。目元は落ち着いたまま、抑えきれないように唇が笑っていた。もし後ろに次のファンが並んでいなかったら、いつもの無表情を取っ払って大きく笑いながら抱きしめてくれるんじゃないかって思ってしまうような顔だった。

そうだ、わたしは愛依サマのこういうところが好きなんだった。すっごくクールだけど、ファンのことをちゃんと覚えていて、たまに友達みたいな距離感でリアクションしてくれるところ。わたしとの握手は手を包むように握ってくれるのだって、前にわたしが冷え性だって話したら、あっためてあげるって言ってくれたのがきっかけだった。

「けっ、結婚しても、愛依サマのこと好きだから、これからも全然行くから、ライブも握手会も」

剥がされながらたどたどしく絞り出した言葉に、愛依サマは「うん、待ってる」と答えてくれた。平坦で短い返事だったけど、それが肯定と歓迎以外の何物でもないことは、何度も現場に通ったわたしが一番知っていた。

 

ルミネのパウダールームに避難して、指輪を外してケースに入れて、ケースをトートバッグの底のほうにしまう。愛依サマが指輪に触れた瞬間に思ったいくつものことが断続的にフラッシュバックする。わたしは大好きな人になんてことを押し付けたんだろう。公には恋愛から遠ざけられながらわたしたちの感情を受け取ってくれるアイドルの愛依サマに対して、愛依サマが一番好きって言いながら一番じゃない人と結婚することを報告して、しかもそれを止めてほしいって期待するなんて。でも、じゃあ、絶対恋人になれない愛依サマに一生片想いする勇気なんてわたしにあった? あったらこんなところで泣いてない。

滲んでしまったアイラインはどうにも直せそうになかった。どうせ愛依サマのためのメイクだったから、今さらどれだけ崩れたってもういい。

次から彼氏に会う時は、指輪つけるの忘れないようにしなきゃいけないんだ。

献立と生活

人生のピークって自分で作らないと存在しないんだ、と、一人分の食器を洗いながら天啓のように気づいた。だから祐佳は結婚式のプランに死ぬほどこだわっていたし、亜佐美はあんなに仕事に一生懸命だし、春奈はマンションを買ったことを自慢げに語るんだ。どうしてそこまでして社会的にちゃんとした大人になりたがるんだろうって不思議だったけど、人生の最高打点を自分で更新しようとみんなちゃんと考えてるんだ。歩いただけで、食べただけで、話しただけで褒められる子どもではもうない大人は、自力でちゃんとするしかないんだ。

どうして同世代の友達の中でわたしだけがこんなに子どもっぽいのだろうと思っていた。でもそういうことだったんだ。人生設計とか資産形成とか、全部ちゃんとした大人のやることで、わたしにはまだ関係ないって思ってたし、友達もわたしと同じだって思ってたけど、みんなわたしと一緒になってへらへら遊んだりしつつもNISAやiDeCoをやったり、結婚前提の同棲とかしたりしてたんだ。

こういうことだって、こんな歳になって気づくことでもないんだろう。気ままな一人暮らしで、残業も少ない服装自由の職場で、狭くもないけど広くもない1Kアパートの家賃と食費には困らない程度の収入。平坦だけど渇望もない生活のせいで、これ以上を欲する感じでもない。何をやるにも今更な気もするし、今から人生のピークを自分で作るなんてのはたぶん無理だ。

 

趣味らしい趣味もない。強いて言えば料理をするのが苦にならないから、部屋を借りるときは二口コンロがあるところを選んで、食べたいものがあればレシピを検索するくらい。休日は朝と昼が合体した軽い食事と、多少時間をかけた夕食を作る。冷蔵庫の中の食材はあらかた使い切ったタイミングだったから今日の夕食を何にするか迷って、YouTubeのおすすめ欄に並ぶリュウジさんやまかないチャレンジやだれウマさんのサムネをスクロールする。

おつまみ系の気分ではないな、冷凍したご飯がまだあるから麺類もパスかな、とはいえガッツリした丼ものもちょっとな、あ、筑前煮、と思って手が止まる。知らないチャンネルの、つやつやしたおいしそうな筑前煮とエプロン姿の女の子のサムネ。再生数は爆発的ではないけどそれなりにあって、顔がかわいいからかなと思いつつも一応再生する。

九州っぽい方言でハキハキとよくしゃべる子だった。やっぱり顔がかわいいからだな、と動画を閉じかけたら、しゃべりながら信じられない手際で里芋の皮をむいて鍋に放り込んでいく。里芋の下茹でとほかの野菜の皮むきを当然のように並行していて、あれ、ちゃんと料理ができる人だ、と思った。

「じゃ~ん! にんじんはかわいく飾り切りにしたばい! れんこんは火の入りを浅めにするとシャキシャキ食感がたまらんとよ!」

ただでさえ硬くて火の通りづらい根菜をこうも軽やかに扱うのを見ると、筑前煮ってもしかして実は簡単な料理なんじゃないかと思えてくる。材料もスーパーで揃うし、今夜はこのレシピを参考にしようかな。

 

多めに作ってお弁当のおかずにしよう、と5人前だったそのレシピの半量の材料を買い込んで、里芋の皮むきを始めた時点で早くも後悔した。じゃがいもやにんじんに比べて小さいからそもそも扱いづらいし、むいていくうちにつるつる滑る面積が増えて手間取る。でも残りの材料たちがこっちを見ているから、さっきの動画をもう一回再生しながらがんばった。料理にはそこそこ慣れているつもりだったけど、この子の手際の良さを見ると自信がなくなってくる。

「そいじゃあ今日の『こがねのお勝手』はここまでたい! チャンネル登録と高評価、待っとーよ!」

できる限りレシピに忠実に作った筑前煮は、うちの実家じゃないけど実家の味がした。派手じゃないけど、しいたけの出汁がよくしみておいしい。最近、時短重視のバズレシピばかり見ていたかもしれないなと反省した。

食べ終えて食器をシンクに持っていってから、YouTubeで「こがねのお勝手」と検索してみる。恋に鐘って書くんだ、めっちゃいい名前だな。再生リストが出てきたから開いてみたら、煮込みハンバーグ、豚汁、炊き込みご飯、アジフライ、ホットケーキとジャンル不問のレシピがたくさんまとまっていた。どれも多分恋鐘ちゃんの手際のせいで自分でやるより簡単に見えてしまうのだろうけど、休日にやることなくて時間を持て余すくらいならちょっとがんばって作ってみようかなと思った。

 

再生リストから順繰りに過去の動画も遡って、週末はすっかり恋鐘ちゃんのレシピを作るのが日課になった。優しい味付けと、時折慈しむような顔を見せながら料理をする恋鐘ちゃんがじんわりと楽しみになっている。

レシピ本とか出してないのかな、と思ってチャンネルのホームに飛んでみたら、「こがねのお勝手」以外の再生リストが思ったよりたくさんあった。料理動画以外おすすめにも上がってこないから勝手にお料理YouTuberだと思っていたけど、MVやゲーム実況動画が結構な本数まとめられていて、どうやらこの283プロチャンネルというのはちゃんとしたアイドル事務所らしかった。

エプロン姿しか見たことのなかった恋鐘ちゃんが歌って踊っている。しかもかっこいい系のグループなんだ。ライブ映像の迫力と、料理をしている時とは全然違う恋鐘ちゃんの雰囲気に、なんだかどきどきした。

自動再生で流れた次の動画では恋鐘ちゃん一人がカメラに手を振っていた。

「うちの写真集が出るとよ~! こん撮影のために南の島に行ったばい! それから、プロデューサーにどうしてもってお願いして料理してる写真も撮ってもらったと!」

先週アップロードされたばかりの宣伝動画のようだった。写真集撮影の思い出話、見どころ、お渡し会があるから来てねのメッセージ。楽しそうにころころ変わる表情に、本当にアイドルなんだな、と思う。お渡し会っていうのに行けば恋鐘ちゃんと話せるのかな。

概要欄に貼ってあるお渡し会整理券付き写真集の通販ページに飛んでみる。一冊3000円なら買えない値段じゃないなと思ったけど、スクロールすると在庫の欄にバツ印が並んでいた。発売日からあまり経っていないようなのに、全部売り切れている。

ああ、会えないのか、と、思っていたよりはるかに落胆したことにびっくりする。こういうの、ファンの人たちは発売した瞬間に買うんだろうか。ライブのチケットの争奪戦というのも聞いたことはあるし、応援したい人を直接応援するのって、もしかしてすごく労力をかけてがんばらないとできないことなんじゃないか。アイドルのファンって、どうやってなればいいんだろう。何て検索したら入り口に立てるのかもよくわからない。

 

恋鐘ちゃんに会って、たくさんのやさしいご飯を教えてくれたことにお礼を言いたい、と思った。それを実現するにはあまり好きではないがんばるという行為をしなければならないけど、がんばってでも言いたい、と思った。

1Kの部屋でごはんを作って食べれば完結するはずだったわたしの平坦な人生。ピークなんて存在しないんだと悟ったはずの人生。なのに、動画の中の恋鐘ちゃんと一緒に料理をしている間のわたしは、この生活自体を愛せていた。

新しいことを知りたいなんて、がんばりたいなんて思ったのいつぶりだろう。結婚式にも輝かしいキャリアにもNISAにも持ち家にも興味が持てなかったけど、恋鐘ちゃんと恋鐘ちゃんの作るごはんはわたしの人生をもっとあたたかい場所に連れて行ってくれるのかもしれない。

 

100万の星が照る場所のこと-765プロライブシアターこけら落とし公演「Raise the dream!」感想

765プロが新しいプロジェクトをやると聞いたときは、ALLSTARS以上に推すことはさすがにないだろうと思った。ALLSTARSの箱推しをやってきた身として、あんなに最高なアイドルがそう簡単に増えるわけがないと思っていたから、わたしにはALLSTARSがいれば十分だと思っていた。全国ツアーをあっちこっち追っかけて、横アリでM@STERPIECEを聴いてぼろ泣きしたり、幕張でToP!!!!!!!!!!!!!を聴いてぼろ泣きしたりする時間が続けばそれでいいって。

 

結論から言えば、765プロライブシアターのこけら落とし公演のチケットはちゃっかり先行抽選で取ったし、推しは39人増えた。だって、無理じゃん、あんなの見せられて、好きにならないでいるのとか。

39人一斉にデビュー!とかだったら、顔と名前が一致しなくて情報についていくのに苦労して諦めていたかもしれないけど、原っぱライブで765プロらしいフリーダムさを見せつけられたうえで(今考えたら、765プロのやることだしとりあえず行くか…という気持ちで原っぱライブを見に行った時点で、わたしの気持ちはしっかり傾いていたのかもしれない)、チームごとのデビューでゆっくり覚える暇を与えられてしまったせいで、結局全チームのCDを買いそろえていた。それぞれのチームの曲の雰囲気もうまい具合にばらけていて、気づいたら沼にずぶずぶだった。事務所の戦略にこうもわかりやすく搦めとられるオタク精神! 765プロ大好き!

おかげでこけら落とし公演も、誰一人知らない子がいない状態で楽しめた。初々しくて、でも全員もうプロの顔をしていて、ALLSTARSに教えられたアイドルという存在の力をもう一度教わった気がした。

 

音源や番組でたくさん聞いたチーム曲を生で聞けたのがまず良かった。海風とカスタネットのサビの合いの手ができたのはうれしくてたまらなかったし、トワラーはジュリアちゃんの歌い出しがあまりにイケボで鳥肌が立った。Star Impressionみたいなゴリゴリにかっこいい曲からUnknown Boxの開き方みたいにかっっっわいい曲まで振れ幅がすごくて、ミリオンスターズはこれだけいろんなことをやれるし、これからファンにいろんな景色を見せてやるっていうメッセージみたいだった。よそ見する暇ないからねって宣言にも見えたし、そんなこと言われなくてもきっともう目を離せない。

ソロ曲も、本当に新人公演?って思うくらい充実していてびっくりした。翼ちゃんのソロでバックダンサーやってた3人、全員キレがすごくてかっこよかった。体幹がまったくブレてなくて。そもそもロケットスター☆という曲自体が強すぎるというか、サビのとろけそうなハイトーンボイスがずっと耳の中で無限ループしてる。あの舞台上での華はミキミキのカリスマを思わせるけど、これから翼ちゃんはどんなアイドルになっていくんだろう。すごく楽しみ。

あと、まつり姫のソロが本当に楽しかった。おとぎ話というよりパレードみたいな、たった一人で会場全体をお祭りにしてしまうパワーがあった。トップバッターでセンターを張ってからすぐにソロまでこなす気概、あまりにも強すぎる。今どきのお姫様はもうか弱くないんだ。まつり姫をただのふわふわお姫様アイドルだと思っている人は一度この公演のアーカイブを見てほしい。見なさい。

 

sentimental Venusの途中で音響が死んだ時は、客席にいるだけなのに冷や汗が出た。スタッフさんや、何よりも舞台上にいた杏奈ちゃんたちはどれほど焦っただろう。ステージ慣れしている今のALLSTARSならなんか自力でどうにか出来てしまうだろうという信頼もあるけど、そうじゃない新人の3人が客席を巻き込んで場を繋いだのは終演後ぜったいぜったいたくさん褒められていてほしい。あの空気、途中で泣き出したっておかしくなかったのに、捌けるときまで笑顔だったの偉すぎたから。(客席の後ろから止まるなって叫んだのは確実に千早さんだった。ALLSTARSのオタクなら声だけでわかるよ。やっぱ後輩の公演とかちゃんと見に来るタイプだよね……。)

 

杏奈ちゃんたちが捌けて静かになってしまったステージに向けて誰かが手拍子を始めたとき、たぶんわたしを含めたALLSTARSのライブ経験者がまず意図を察した。ALLSTARSのライブが始まるのを待ちきれないわたしたちが散々打ってきた手拍子を今ここで打つことの意味は、絶対アイドルのみんなに伝わると思った。大丈夫、待ってるから、がんばれ、って祈りをオレンジのサイリウムに乗せた。

 

音響トラブルで流れが崩れないか心配だったけど、その後に出てきた紬ちゃんの迫力がすごくてトラブったことなんて一瞬で忘れられた。ライブ前の茜ちゃんねるの配信に映っていた紬ちゃんはかなりガチガチに緊張しているように見えて、よりによってこの流れからで大丈夫かな……と心配したのもつかの間、震えなんて微塵もない歌声が飛んできて客席全体が息をのんだのがわかった。おしとやかクールに見えていた紬ちゃんの熱さに度肝を抜かれたのはわたしだけじゃなかったはずだ。

それに続いた歌織さんは口からCD音源が出ていた。歌がうますぎる。あずささんの歌を聴いた時もよく思うけど、あれだけうまいと歌うのめちゃくちゃ楽しいだろうな……。

 

Team 8thのデビュー曲がトリだったのも死ぬほどエモかった。1stからここまでずっと追ってきたアイドルたちがバトンをつないでこの劇場のこけら落としにたどり着いたんだと思うと、しかもこれがゴールじゃなくてアイドルたちの未来の始まりなんだと思うと、泣かないわけにいかなかった。締めは王道アイドルソングで来るのかと思ったら、曲調もゆったりなおしゃれ路線だったから余計に涙腺に来た。ペンラを握りしめて泣いてたら急に頭をなでられて、驚いて涙をぬぐったら横にエレナちゃんがいて今度は心臓が止まった。ただでさえ情緒が忙しいタイミングで客降り演出をするな。(嘘です、本当にありがとうございます。)

 

アンコールは39人フルメンバーがステージ上に揃って、どの瞬間にどこを向いても大好きなアイドルがいた。ALLSTARSがいれば十分だなんてことはなかった。大好きが増えるのが悪いことなわけがない。未来ちゃんがMCで言っていた、シアターから夢を届けられるアイドルになりたいという願いは、アイドル当人たちにもわたしたちファンにとっても、これからずっと大事な願いになるのだと思う。

ALLSTARSもミリオンスターズも、すべてがわたしにとって人生を照らしてくれる星になる。その明るすぎる幸せを、ぎゅっと抱きしめながら夜のゆりかもめに乗った。

ミモレスカートはオレンジ色

母親は幼い俺にしょうもない嘘をついてからかうのが好きだったから、幼い俺はクリスマスツリーは松の木でできていると思っていたし、交番の前を通るときは背筋を伸ばして歩かないと捕まると思っていた。今も一緒に出かけた先で交番を見かけると、母親はにやにやしながら俺の方をちらちら見てくる。高校生にもなってまだ信じてると思うなよ。

ほかにも、昔中華街を歩いていたら急にタキシードを着た美少年がスタントを始めたとか、たい焼きの皮には鯛のすり身が練りこまれてるとか、いちいちいいリアクションを返す幼い俺に母は嬉々としてあれやこれやと吹き込んでいた。

 

「あら、あんた昔このひとと会ったことあるのよ、覚えてる?」

日曜の遅い朝食を食べながら母親が指さした先のテレビには、最近CMとかでよく見る現代のきれいなお姉さん代表みたいな芸能人が映っていた。まったく覚えていない。というか、この母はまた息をするように嘘をつこうとしているな。

「いつものホラでしょそれ。そういうの、今まで何回騙されたと思ってんの」

「本当よお、5歳くらいの時だったかな? 手つないで歩いてたのに、買い物してる間にあんたが一人でどっか行っちゃって。慌てて探したら、その時の母さんとおんなじ色のスカート穿いてたお姉さんの手、すました顔で握ってたのよ」

ぐぇ、と喉の奥で小さく変なうめき声が鳴る。思春期の息子にそういう小さい頃の恥ずかしいエピソードを披露しないでくれ。自分がいたたまれなくなるだろうが。

「百歩譲って俺の行動が本当だとして……間違えた先がたまたま芸能人だったとか、偶然として出来過ぎでしょ……」

平静を装って返してはみるものの、絶対この母親面白がってるな。

「母さんもその時は「やだ~すみません~!」って謝るので頭いっぱいだったから気づかなかったんだけどね。すっごく優しい人で、「全然大丈夫ですよ、かわいい息子さんですね」って言ってくれてね。あんたにも手振ってくれて、しゃべり方が印象的だったからよく覚えてたのよ。そしたらその日の夜のテレビに出てるんだもん、びっくりしちゃった。芸能人とファッションセンスが似てるなんて、母さんもなかなかやるわよね」

幼少期のかわいい人違いエピソード(たぶんここまでは事実)で俺を動揺させたうえで、さらに芸能人のきれいなお姉さんを意識させて内心で大笑いする気だ。さんざんからかわれてきた俺にはわかるぞ。騙されないからな。

「その顔は信じてないわね、疑り深い息子に育っちゃって母さん悲しい……」

「誰のおかげだと思ってる??」

食べ終わった朝食の皿を流しに持っていきながら、泣きまねをする母親にツッコミを入れる。なんだかんだ仲は良い。

『それでは次は、”桑山千雪のオチのない話”のコーナー! 今日も世間話を聞くような、の~んびりした気持ちで聞いてくださいね。』

テレビでは日曜昼らしい平和なBGMで、平和なコーナーが始まった。やっぱりこんなに美人な売れっ子と偶然会うとか嘘すぎる。

『私がまだデビューしたての頃のお話なんですけど、横断歩道の信号待ちをしていたら小さい男の子にぎゅっと手を握られたことがあって。どうしたんだろうって思って追いかけてきたお母さんの方を見たら、お母さんと私がおんなじスカートを穿いてたから間違えちゃったみたいで。すっごくかわいくないですか?』

「は?」

テレビを凝視して、それから母親の顔を見た。

……死ぬほどドヤ顔をしていた。

『もうずっと前のお話なので、あの時の男の子も中学生とか高校生になってると思うんですけど……お~い、見てるかな? あの時のお姉さんだよ~』

『今たまたまこの番組見とるってどんな運命やねん! 少年、ほんまに見とったら番組に連絡よこしてくださいね!』

お笑い芸人がゆるくトークを締めて、スタジオに軽い笑いが起きる。本当にオチのない、短いコーナーだった。

「どうする? 番組にメール送る?」

今までで一番うれしそうな顔をした母親がスマホを構えてこっちを見てくる。

「…………いや、いい……」

いろんな種類の恥ずかしさがいっぺんに押し寄せて、顔を背けてリビングを出る。図書館に行くふりをして自転車で家を飛び出して、誰もいない河川敷で大声で叫びたい気分だった。