そういえば彼氏とも別れたんだよねー、と事も無げに告げられたのはもういい加減お酒も回ってお開きにしようかというタイミングで、アルコールのせいで「えええっ!」と想定より大きな声が出た。
女子会とは名ばかりの、十年来の友達ふたりでたまに集まってお気に入りのダイニングバーで近況報告をしあう会。この前私が結婚した時にバカみたいに大きな花束を持ってきてくれた瑠奈にどんな言葉をかけるべきか迷う。
「いい人そうだったのに、うまくいかなかったの?」
探り探りの私のことばにひらひらと手を振って否定して、瑠奈は口をとがらせる。
「いい人だったよ、ちゃんとしてたし。でもねー、美琴より大事に思えないのが申し訳なくなってきて。なんか、あたしよりいい選択肢いっぱいあるよ!?ってなって別れちゃった。ちゃんとお互い納得してるから大丈夫だよ!」
「美琴さん…」
ここで出てくるのが瑠奈の推しの名前であることに、ちょっとぎょっとする。半年前に会社を辞めた話を聞いたのもこのお店でだったし、同じく美琴さんが理由だった。土日祝休みで19時定時の会社では、平日ライブの開場に間に合わないからって。短時間勤務のフレックスの会社と単発バイトを掛け持ちする生活で身体がもつのか心配だったけど、本人は転職前より楽しそうに美琴さんを見に行っているから良いんだと思っていた。
「そんな不安そうな顔しないでよ、親友がこんなに人生楽しそうにしてるんだから喜んでってば」
当の瑠奈がけらけらと笑っているのに、私は自分で思うより変な顔をしてしまっているようだった。
「ねーなんかごめん、帰る雰囲気だったけどもう一杯飲んでいい? 夫氏怒んない?」
オットシ、という単語を初めて瑠奈から聞いた時、うまく漢字に変換できなかった。真緒の配偶者の人のことだよと言われて初めて夫氏だとわかった。普通に旦那さんとか言えばいいのに、と笑ったら、普通って難しいよねえと笑い返された。
話が盛り上がってるからもうちょっと飲んでいくね、とラインを入れて、メニュー表を瑠奈に渡す。楽しんでおいでーと気の抜けた返事が来た通知を確認してから、瑠奈はレッドアイを、私はカルーアミルクを頼んだ。
「瑠奈、あの彼氏…元彼の人と結婚するんだと思ってた。推し活も理解してくれてたし」
カンパリソーダとモスコミュールのグラスを返して、新しいお酒もそこそこに話を続ける。
「寛大だったよねー、あたしがあれだけ美琴美琴言ってても嫌な顔しなかったし。でもまあ、だからこそあたしの人生の中心に近いところにいるのが彼氏より美琴だなって確信しちゃったんだけどさ」
「ツイッターとか検索すると、美琴さんファンの代表みたいな感じだもんね瑠奈」
「いやいやいや、そういうのは勘弁してほしいー。ドルオタはTO問題に敏感なんだよ、あたしなんて美琴が大好きなだけの木っ端ファン」
美琴さんが出るライブとかイベントのほとんどを見に行っているのに、瑠奈は謙虚に首を振る。瑠奈がツイートするライブのレポートはその日の衣装やネイルのことから長文の感想まで密度が高くて、SHHisのファンの人たちからめちゃめちゃフォローされていた。
「ていうかさ、真緒もSHHis現場行こうよ、生にちかちゃんまた見ようよ~」
レッドアイをぐっと飲んで、瑠奈は私に顔を寄せる。瑠奈に教えられて聴き始めたSHHisの曲はかっこよくて、そこからにちかちゃんがテレビに出ていると結構見るようになった。強気で、切り返しがうまくて、かわいい。でも、瑠奈がTwitterでそうしているように推しの魅力を的確に言語化するみたいなことができるわけでもないし、ライブも瑠奈に連れられて行った一回きりだし、私の方こそファンと名乗るのも恥ずかしいくらいだった。
「あーでも夫氏との時間を邪魔するわけにもいかんか、真緒新婚だし一緒にいたいよねー」
私がライブに行くと即答しない理由も瑠奈にはバレバレで、今さら否定するような間柄でもないから素直に照れ笑いが出る。
「ライブもね、連れてってもらった時すっごい楽しかったしまた行きたい気持ちはあるんだ。折を見て誘ってほしいなーとは思ってる」
「誘う誘う〜、夫氏が出張でいない日とかあったら行こうね」
夫氏が出張とかある仕事なのか知らんけど、と笑う瑠奈は、私の旦那に会ったことはない。紹介しようかと提案したこともあったけど、真緒にとっての大事な人でもあたしにとっては他人だからなー、とやんわり断られた。瑠奈はそういうところはドライで、私だったらなんとなく断りづらくて興味がないのに受けてしまう約束をしないところがかっこいい。その提案を断られたからといって瑠奈が私を蔑ろにしたわけではないのは、私が一番よくわかっていた。
「瑠奈はすごいよ」
お酒がまわってふわふわした頭で、もうこれまでの瑠奈との会話で何度言ったかわからない台詞が口から出る。
「またそれ? あたしがすごかったら真緒も同じだけすごいけどな」
完璧に熟れたりんごみたいな色の爪を撫でる瑠奈の人生がすごくすごいことを、こうして酔うたびに伝えてしまう。私が就活や仕事や恋愛や結婚で手一杯になっている間に、瑠奈は私が手一杯になっていたものたちすら人生の手立てのひとつにして、大好きな美琴さんのために生きている。ネイルサロンで赤色の爪しかオーダーしないことも、お酒を飲むときに赤いカクテルしか頼まないことも、瑠奈はバカみたいでしょと笑うけどかっこよくて羨ましくて、やっぱり私はにちかちゃん推しなんて名乗れないなとそのたびに思った。
「瑠奈を見てると、推しより自分の人生が大事な私なんか、全ぜ」
全然、と言い終わる前に瑠奈の赤いネイルの指が私の頬を両側に引っ張った。
「真緒が何回も言うからあたしも何回も言うけどねー、推してなきゃ生きていけない推しなんていなくても真緒はにちかちゃんを推してていいし、あたしは生きてていいんだよ」
輪郭のはっきりした口紅で瑠奈は笑う。
「たしかに美琴は美のイデアかもしれないし、あの完璧さを保ったまま人間でいるのってたぶん奇跡だから、あたしがそれに人生を全ベットするのはそういう価値があるからだって思ってるよ。そしてそれは別に、真緒があたしと同じでなきゃいけない理由にはならんでしょうよ」
「でも、私のやってることなんてにちかちゃんのアカウントフォローして告知見て、見れそうな時間帯だったらテレビ出てるの見るくらいだよ」
愛を表現するのがうまい瑠奈へのあこがれとにちかちゃんのツイートが好きな気持ちがごちゃごちゃになって、どこへ向けたのかわからない謙遜になる。
「新曲も共有したらちゃんと聴くじゃん」
「それは、そう……全部かっこいいし……」
「あたしみたいなののためだけにSHHisがアイドルやってるわけじゃないからさ。アイドルやる理由なんて本人たちにしかわかんないけど、SHHisにはたぶん、真緒みたいなファンも必要だと思うよ」
グラスに残ったレッドアイを飲み干して、瑠奈はお会計!と店員さんを呼ぶ。酔った頭で聞く瑠奈のSHHisに対する弁舌は、いつもこうして優しく心地よかった。
「ライトファンでもいいのかな」
「ヘビーファンが許可していいかわかんないけど、いいよ。時間あったらにちかちゃんにファンレターでも書いてみなよ」
「ファンレターって何書いたらいいの?」
「にちかちゃんの好きなとこ100個とか」
「瑠奈は美琴さんの好きなとこ100個書ける?」
「余裕すぎ。1000個でも足りない」
駅までの帰り道で話して、笑った。どうしたって私の人生は普通だけど、ファンレターを書く普通の人生のほうが、ずっと好きになれる気がした。