アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

BMI15.82

咳が止まらなくなって、でも別に熱もないしなと思って毎日職場に行った。
たくさん人が辞めるからまだ社会人2年めなのになぜかベテラン扱いされて、よくわからないまま仕事と責任が増やされていた。
池袋でいちばん大きなオフィスビルに入っているからちゃんとした会社だろうと思って就職したのに、
ちゃんとしているのは広報にお金をかけているからそう見えるだけで、広告費で圧迫された手取りは全然増えないままだった。

 

仕事が終わらないから帰れなくて、三食デスクでコンビニのサンドイッチとカロリーメイトを食べて、
警備員さんにもう施錠するからと言われたことを言い訳に家に帰って寝た。


空咳のしすぎで腹筋が痛くなって、それでも咳き込み続けたら腹筋が浮き出てきた。
すごーい、勝手に筋トレできてる、と同期と笑っていたら、総務から健康診断の結果が届いた。
開けてみたら身長体重の結果がD判定で、身長と体重測っただけなのに判定悪くなることある?と思ってよく見たら、
体重が学生のころよりずっと減っていて、身長155センチ体重38キロ、BMI15.82、結果低体重、と書いてあった。ヤバ。
腹筋が割れたのではなくて、それ以外が削がれて腹筋が表に出てきただけだった。
そういえばブラが緩くなった気がして、くたびれたからゴムが伸びてきたんだなと思っていたけど、
もしかして胸自体もアンダーも減っているのか。
咳はストレス性だろうから一度病院に行け、とも書いてあった。土日もやってる病院探すの大変なのにな。
有給のとり方よくわかんないし、仮に平日休んだら次の出社が怖くなるだけだからな。

 

とりあえず、人生で初めて「太ったほうが健康にいい」みたいな状況になったので、
オフィスのビルに併設されているサンシャインの地下にマックを買いに行った。
どうせ今デスクでハンバーガーをかじりながら仕事しても残業することはわかりきっていたから、開き直ってイートインで食べた。
カロリーを気にしなくていいから欲張ってサイドメニューをナゲットとコーラにしたらお腹がいっぱいになってぐったりした。
食べるの好きだからこれくらい前までは余裕だったのに、しっかり食事する体力がなくなっているのかもしれなくて、
年のせいにするにはさすがにまだ早いはずで、なんか本当にやばいのかもしれないと思った。

 

腹ごなしをしないと仕事中に寝そうだったから、オフィスに戻る最短ルートを外れて少し歩くことにした。
途中、サンシャインの真ん中にあるステージみたいなところにめちゃめちゃな人だかりができていて立ち止まった。
ステージ後ろのスクリーンには「放課後クライマックスガールズ3rdシングル「五ツ座流星群」リリース記念イベント」と書かれている。
ステージ上には誰もいなくて、代わりにスタッフのひとたちが「小宮果穂列」「園田智代子列」みたいなのぼりを並べていた。
「なんだこれ、ハロプロ?」とわりと大きな声で独り言が出てしまって、口を押さえる。
最近仕事中もひとりで喋ってるって同期に指摘されたけど、マジじゃん。

 

「放クラですよ、お姉さん! 283プロの!」

 

すぐ前にいた大学生くらいの女の子が、突然振り返って答えてくれた。
すみません独り言でしたとも言えず、「はあ、放クラ……」と我ながらなにもわかっていなさそうな返事をする。

 

「ミニライブは終わっちゃって、これから握手会始まるところなんですけど、お姉さんもどうですか!? 
わたし、全人類に夏葉さんの布教したいんで握手券一枚あげましょうか!?」

 

めっちゃグイグイ来る。怖い。

 

「いや、握手券もお金かかるんですよね? そんな通りかかっただけなのに、悪いですよ」

 

仕事、戻らなきゃ、昼休みが、と細切れに言葉が口から出てくるけど、スクリーンに大写しになった5人の女の子と、
目の前で恥ずかしげもなく「有栖川夏葉」と明朝体で刺繍された蛍光グリーンのキャップをかぶっている女の子に目潰しを食らって、
手に押し付けられた一枚の握手券を受け取ってしまった。

 

「大丈夫です、いっぱいあるんで!! それ持って夏葉さんの列に並べば握手できます!!」

 

なんにも大丈夫じゃないんだけど、ここで職場に戻ったら握手券泥棒みたいになるし、
どうせわたしが戻るのが少し遅れたって会社のずさんな管理が気づくはずないし、
元はと言えばわたしの独り言が大きすぎたのが悪いし、独り言を言うようになったのはたぶん仕事のストレスのせいだし、
なんか、もういっか、という気持ちになってきた。

 

握手券をくれた子はもうその夏葉さんという人の列の先頭に並んでいて、お礼も言えなかった。

「なにを、話せば……」

ずらずらと長くなってきた列の最後尾に並んで、また思ったことが口に出ていて慌てる。

 

「初めてですか? 大丈夫ですよ、夏葉ちゃんから話振ってくれるんで!」

 

今度は前に並んでいたお兄さんが独り言に答えてくれた。
なんだ、アイドルのファンってみんなこういうノリなのか。
しどろもどろでお礼を言う。

 

並んでいたひとたちの空気がワッと明るくなって、ステージ袖から派手な衣装を着た女の子たちが走ってくる。

みんな顔ちっさ。かわい。
歌番組以外で初めてアイドルを見た。なんか、存在している位相が違う。これがアイドル?

 

「みなさんおまたせしました!! 握手会、はじめます!!!」

 

ピンクの衣装を着た子の宣言に、ファンが声援と拍手で応える。
ここにいる全員がひとり残らず楽しそうで、ビルの上のワンフロアで全員が死んだような顔で仕事をしているのが嘘みたいだった。

 

それぞれの列が少しずつ進む。
赤い子がファンの手をぶんぶん振り回すように握手をしている。
水色の子がファンを見上げるようにまっすぐ目を合わせて話している。
黄色の子がファンになにか言われて真っ赤になって照れている。
ピンクの子がファンと一緒になって大笑いしている。

 

肝心の夏葉さんというのがどういうひとなのか、並んでいる列に遮られてまったく見えない。
さっき大丈夫と言われたし大丈夫だろう、という謎の安心感があって、緊張はあまりしていなかった。

握手券をくれた女の子が自分の番を終えたようで帰っていく。
帰り際に手を振ってくれて、振り返した。

 

わたしの前のお兄さんの番が終わって、視界がひらける。
遮蔽物のない100%の夏葉さんを目の前にして、独り言はなにも出てこなかった。

 

していないと思っていた緊張が一気に噴出する。してるわ緊張、全然。
きれい、とか、背高い、とか、なんか強そう、とか、印象の断片が押し寄せては形になる前に消える。

 

握手会なのだしとりあえず握手をしなければいけない、と思って、何も言葉が出ないまま両手を夏葉さんに差し出す。
途端、夏葉さんも両手でわたしの手を握りしめてきて、その握力にびびる。

 

「はじめての人ね! 会いに来てくれてありがとう!」

 

張りのある、上品で力の強い声。すごい、なんか、こんなにわたしの目を見て話してくれるひとがいるって、すごい。

 

「――あら」

 

少し眉をひそめて、夏葉さんはわたしの手をにぎにぎとまさぐって、ついには手首と前腕に触れてくる。
え? 握手会ってこういうもんなの?

 

「ねえ、あなたきちんとした食事をとっていないでしょう? よくない痩せ方をしているわ」
「……あ、健康診断でも、低体重って」
「やっぱり! 髪にもあまり艶がないわね。せっかく黒髪が似合うのに」

 

初対面で、しかもアイドルの握手会で言い当てられる内容ではない。
なんだこの人。

 

「三食たべてはいるんですけど」
「何を?」
「コンビニで適当に、あとさっきはマックを」
「それで食べた気になっているならよくないわ。コンシーラーで隠しているみたいだけれどクマもなかなかね」
「仕事が、忙しくて、いまも昼休みで」
「まあ、」

 

ぎゅううう、と、ちょっとこっちの手の骨が心配になるくらい、夏葉さんの手に力がこもる。

 

「これは私のエゴよ。だけど言うわ。仕事よりあなたの健康が大事。私はあなたに健康でいてほしい」
「なんで、初めて会ったわたしにそんな、」

 

言い終わる前に、とんとんと肩を叩かれる。ああ、時間切れだ。

 

「こうやって会いに来てくれたあなたが他人なものですか!」

 

スタッフの人がわたしを剥がそうとするのに、夏葉さんが手を離してくれない。

 

「きちんと食事をして、筋肉をつけてこそきちんとした仕事ができるのよ! 
ブログにもおすすめの朝食スムージーのレシピとか筋トレメニューとか書いてあるから、」
「すみません、有栖川さん、時間が」
「絶対に見に来て! そして健康な姿をまた私に見せに来て頂戴!」
「終わりますよ、タイムアップです」

 

最後、スタッフさんはわたしじゃなく夏葉さんを剥がしていた。
あるんだ、ファンじゃなくてアイドル側が粘ること。

 

 

初めての握手会としてこれが正解なのか全然わからなくて、オフィスに戻りながらちょっと笑った。
あれだけ続いていた空咳が今は止まっていて、夏葉さんのこと好きになっちゃったなと単純に思えた。

 

社員証でセキュリティドアを開けて自分のデスクに戻る途中、課長に別の仕事を頼まれる。

 

「……あー、やりますけど、今週中とかでも大丈夫ですか? 今日中は無理です。
あと、健康診断の結果ヤバかったんで病院行きたいんですけど、有給ってどうやって取るんですか」

 

わたしのことを従順で口答えしない部下だと思っていた課長が口を開けている。
大した要求じゃないっていうか、たぶん当たり前のことしか言ってないはずだけど。

 

もしかして負担が大きすぎたか、と今更なことを白々しく言ってくる課長に心のなかで舌を出して、
だけど社会人だから愛想笑いが上手にできた。
有給が取れたら、ちゃんと病院に行ったあと、夏葉さんの言ってたスムージーを作ってみよう。