アイドル現場レポ日記

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カミサマ推しのわたしたち

アイドル文学論

提出日・2023-7-8

所属:文学部 小説・散文コース

氏名:折原 ゆづき

学籍番号:370L58-1

カミサマ推しのわたしたち

1 カミサマ・斑鳩ルカ

 カミサマと呼ばれるアイドルがいる。現在はソロで活動する斑鳩ルカだ。(かつては二人組のユニットを組んでいたが、本レポートで触れるのはソロ活動以降の斑鳩ルカであるため、ここでは割愛する)

 彼女の透明度の低い黒髪には、警告色のようなブリーチのメッシュが対比するように入っている。目つきは鋭く、あまり笑わない。ライブ衣装も黒を基調にしたものが多く、アイドルという存在の王道が「歌とダンスでファンに元気と笑顔を与える」という趣旨のものだとするならば、斑鳩ルカは王道からは外れたアイドルなのだろう。

 王道ではないことと人気がないこととはイコールにならず、斑鳩ルカのツイスタのフォロワー数は2023年7月現在で20万人を超える。アカウントの投稿内容は多くのアイドルがそうするような自撮り写真も多いが、ただ移動中の車窓を撮っただけに見える画像に「きえる 私」等の短文を添えた投稿がなされることもある。そして後者の投稿は筆者の体感6割程度の確率で数時間~数日の間に消えている。このいつ消えるとも限らない、そして言ってしまえば具体性を欠く投稿だが、ファンからのコメントは瞬く間に増える。内容はたとえば斑鳩ルカが「病んでいる」と感じたファンからの心配であったり、同じタイミングで「病み」を感じていたファンからの同調だったりする。(ここで言う「病む」という単語については、現代の10代から20代前半の若者ーーZ世代の、特に女性ーーに比較的共通する、突如やってくる気分の落ち込みややけっぱちな気分とする。)

 このSNS上のコメントでも、斑鳩ルカは「カミサマ」と呼び掛けられる。先述のような「病み」投稿*1についたコメントをランダムにピックアップすると、「カミサマ、泣いてるの?」「カミサマを傷つける世界なんか間違ってる」等が挙げられる。

 このレポートでは、斑鳩ルカの呼称とそれにまつわる諸問題について考察していく。

 

2 カミサマがいないと病んじゃうわたしたち

 第1節でさも他人事のように斑鳩ルカの特徴やZ世代における「病む」という単語について言及したが、筆者はZ世代ど真ん中であり、斑鳩ルカのファンである。そのため、本レポートがどこまで客観性を担保できるか不明であるが、せっかく同時代性のあるテーマでレポートを書けるチャンスであるため、ファンダムの内側からしか観測できない内容になればいいと思う。

 別のアイドルが好きな同級生から、「ルカ信者は見たらすぐわかる」と言われたことがある。その言葉は私個人の普段の恰好や言動を指して言ったものだったが、斑鳩ルカのファン全体を見回しても当てはまるものでもある。わざと血色を殺して不健康そうに見せる地雷系メイク、EAT MEやMA*RSに代表されるような黒とくすみピンクを基調とした地雷系ファッション(あるいは斑鳩ルカ本人の私服と同じブランドを取り入れたピープス系)、そして一様に斑鳩ルカを「信仰している」振る舞い。誰かに「カミサマ」を語るときの声音やいわゆる痛バッグ*2にかける気合が、他のアイドルを推しているファンとは違うのだそうだ。

 要するに遠回しに「ルカファンは異質」と言われたのだが、ルカファンにとってはーー少なくとも筆者にとってはーールカを好きになるのは普通のことだし、ルカに対しての愛を表明するための手段も特別変わったものではないように感じる。普通に生きてきたらこうなった。

 筆者が推し活用のツイスタアカウントでつながっているルカファンの多くにも、筆者と似たものを感じる。斑鳩ルカのライブ後にファン同士で打ち上げに行くと、「ルカのために生きてる」「ルカがわたしのカミサマになってくれてよかった」というような言葉で推しを表現するのが恒例になってすらいる。そしてその斑鳩ルカへの愛に続く言葉は、決まって「ルカがいなくなったら”死んじゃう”」なのだ。

 これは決まり文句だからそう言っているとかではなく、実感としてそうだから出る言葉だ。斑鳩ルカがいないと生きていけない。だいたい常に病んでいて、ずっとちょっとずつ死にたい日々を救ってくれるのが斑鳩ルカという存在なのだ。かっこよくて、ダウナーで、誰にも媚びなくて、「わたしたち」にちょっと似ていて、だけど「わたしたち」は絶対斑鳩ルカになれない。「わたしたち」のあこがれを精製してちょっとだけ病んだ現実を混ぜたような存在を、斑鳩ルカのファンは信仰する。

 心身が健康な人は、死にたいと口にするのはおかしいことだから健康であるべきだと言う。そう言われるたび筆者は、別にそういうことではない、と思ってきた。気圧と天候とバイオリズムと恋愛模様と、あとアンコントローラブルな自分の機嫌に振り回されて、自分という荷物が重すぎて抱えきれなくなることを、全部なんとなく包括してくれる表現が「病む」だったり「死にたい」だったりするのだ。そしてどうやったって陥ってきたその表現たちを考えずに済むように心の大部分を信仰で占めてくれるから、斑鳩ルカはカミサマなのだ。

 

3 カミサマへの祈りは受け取られるか

 斑鳩ルカの言動は時にトリッキーで、ライブでもよくスタートが押したりアンコールが「疲れたから」という理由でなくなったりする。しかし、そのライブでの斑鳩ルカはアンコールとしての歌を歌いはしなかったものの終演後に顔を見せに再登壇しており、トリッキーではあるがファンに対して不誠実な態度をとっているわけではないように感じる。

 笑顔がまぶしくて見た者を明るい気持ちにさせるいわば「THE アイドル」と斑鳩ルカというアイドルとはかけ離れているというのは冒頭で述べた通りだが、わけもなく惹かれてしまう魅力や熱狂的なファンを多く率いるカリスマ性を斑鳩ルカが持っていることは、前述した(筆者のような!)「異質なファンたち」のわかりやすさやツイスタのフォロワー数に証明されると言っていいだろう。

 しかし、ツイスタの20万を超えるフォロワー数がすべて彼女の純粋なファンなのだろうか、という疑問もある。というのも、googleフォームを使用して複数のSNS上でアンケートの回答を募ったところ、「斑鳩ルカのアカウントをフォローしているが、彼女がアイドルであることを知らない」という層が一定数存在するからだ。筆者とつながりのある層を起点に拡散に協力してもらったアンケートであるため回答の内訳に偏りはあるが、各設問に対するYES/NOの回答比率は下記の通りだった。(総回答数369件、回答比率の小数第二位以下は四捨五入)

 

斑鳩ルカを知っているか(YES 80.2%/NO 19.8%)

斑鳩ルカのツイスタアカウントを見たことがあるか(YES 75.1%/NO 24.9%)

斑鳩ルカのツイスタアカウントをフォローしているか(YES 69.0%/NO 31.0%)

斑鳩ルカがアイドルであることを知っているか(YES 60.3%/NO 39.7%)

斑鳩ルカがパフォーマンスをしているところを、直接あるいは動画で見たことがあるか(YES 42.8%/NO 57.2%)

斑鳩ルカがリリースしている楽曲のタイトルを一曲でも挙げることができるか(YES 37.4%/NO 62.6%)

 

 斑鳩ルカという存在の認知度はやはり8割と高い。しかし、アイドルであるということの認知度は6割と大きく下がり、実際のアイドル活動に興味を持つ回答者の割合はさらに下がる。斑鳩ルカに限らず、現代のSNSやテレビ番組に露出する存在の肩書は多様化しており、SNS勃興前はアイドル・俳優(女優)・タレント・モデル・お笑い芸人等のくくりに収まっていたところから、YouTuber・Tiktoker・ツイスタグラマー(包括してインフルエンサーと認識されることが多いだろう)等の新しい存在が当たり前に受け入れられている。肩書の数が増えた結果、むしろ「どんな肩書を背負っているかは知らないしこだわらないが、よく情報が目に入ってくるためその存在だけは知っている」という認識の仕方が増えているのではないだろうか。

 また、「斑鳩ルカのツイスタアカウントをフォローしているか」にYESと答えた回答者へ、記述回答の設問として「なぜ斑鳩ルカのアカウントをフォローしているか」と質問した。当然「ルカ様のファンだから」「カミサマ推しだから」と斑鳩ルカという存在を好意的に見る回答が多く見られたが、「服がおしゃれだから」「顔がきれいだから」「フォロワーが多いから」というツイスタ上で完結する(=ツイスタの外の斑鳩ルカに興味を持たない)理由もその次に多かった。これは先述の「斑鳩ルカがアイドルであると知らない層」の存在とリンクするものだろう。

 この質問結果の中に、気になる回答があった。「病みツイを見たいから」という内容のものである。正直なところ二、三はこういう意見があるだろうとは踏んでいたが、結果としてこのような内容の回答は13件あった。どれも短文での回答であったし、匿名でのアンケートだったため、この「病みツイを見たい」という動機に含まれる感情がどのようなものか回答者本人に確認することはできない。しかし、筆者が(こんなに多いとは思わなかったとはいえ)同じような回答が来るだろうと想定していたのも事実であり、どのような感情が含まれているのか推察することはできる。他人が病んでいることを確認するのは、自分も病んでいる状態で見れば自分だけではないと安心する材料になるだろうし、自分が病んでいない状態で見れば憐憫の情を持つことで自分が優位に立ったように感じることができるだろう。あるいは野次馬根性というのか、他人が幸福でない状況にあることを眺めるのが娯楽と感じる人間もいるのかもしれない。

 斑鳩ルカのファンとしての筆者からすれば、わたしの大切な推しが病んでいるのを見て面白がるな、自分を安心させるための材料にするな、と言いたいところだが、だからといって筆者自身が斑鳩ルカの理解者たりえるかといえばそんなことはない。斑鳩ルカが病んでいることがツイスタの通知からどれだけ伝わってきても、彼女の横に座って手を握ってあげることもできず、ただ慰めになるかもわからないコメントを打ち込むことしかできないのだ。コメント欄が閉鎖されない以上このことばは斑鳩ルカに届いているのだと信じながら、祈るように彼女を想うしかない。

 

4 ほんとは神様じゃないって知ってる

 第2節で述べたように、斑鳩ルカはファンが持つ放っておくと病んでしまう思考を、自身へのファナティックな情熱で上書きすることで病みから救ってくれるという意味で、「与える」カミサマであると言える。それと同時に、第3節で結んだように、斑鳩ルカが発信する病みに対しファンができることが祈りしかないという点で、斑鳩ルカは「祈られる」カミサマであるとも言える。たった二十年しか生きていない人間を20万人のフォロワーがこぞって「カミサマ」と認識するのは、この「与える」と「祈られる」の両方が揃っているからではないか。

 これまでの講義で様々な角度から定義された「アイドル」だが、「歌とダンスでファンを笑顔にする」「アイドルの笑顔がファンの希望になる」といった「与える」側の定義が多かったように感じる。対して、特に日本という無宗教色の強い文化圏において「祈り」というのは、それ以外にどうすることもできない時に発生する行為であると考えられ、そこには不安定な感情が付きまとう。そのため、全体的に光の方向を指している「与えるアイドル」には、なかなか「祈り」は発生しないだろう。「与えつつ、祈られる」という状況を絶妙なバランスで保っているのが斑鳩ルカだとすれば、他のアイドルがカミサマと呼ばれず、斑鳩ルカがカミサマと呼ばれる理由はそこにあるのではないだろうか。

 しかし、ーーこれは斑鳩ルカのライブに通って感じた主観だがーー斑鳩ルカは二人組ユニットだったころより今のソロの方が苦しそうに歌うようになった。パートナーがいないプレッシャーなのかもしれないし、ファンには知りえない辛いことがあったのかもしれない。彼女がいくらカミサマと呼ばれようと、人間である以上本物の神様ではない。わたしたちファンにとってはカミサマに救われたり祈ったりすることも含めて「推し活」だが、斑鳩ルカ本人が「病んだ」の一言では片づけられない辛さに直面した時、わたしたちにとっての斑鳩ルカのような存在はいるのだろうか。アイドルとファンの関係がステージと客席の高さの差の分だけ不均衡であるように、わたしたちが斑鳩ルカを本当の意味で救うことは多分できない。彼女が救われてほしいと祈れば祈るほど、その祈りがますます彼女をカミサマにしてしまう。

 斑鳩ルカはあまり笑わないが、笑うときは本当に幸せそうに笑う。それを知っているファンとして筆者ができるのは、彼女がまだ二十歳のーー自分のこともままならない筆者と同い年のーー人間であることを忘れないことなのかもしれない。

*1:例に挙げたものは2022年12月の投稿であるが、本レポートの評価が出るころにも閲覧可能とは限らない

*2:ライブ会場の物販で売られる缶バッチやチェキなどのグッズを所せましと飾った「見せるための」バッグのこと