アイドル現場レポ日記

いろんなオタクのレポ置き場

櫻木真乃を推していた頃

高校生の頃、櫻木真乃を推していた。

 

当時は「推し」という単語が今ほど普及していなかった時代だったから、「推しは櫻木真乃です!」みたいな自己紹介をしたことがあるわけではない。「推し」ということばが生まれたから、遡って高校生のぼくは櫻木真乃を推していたことになった。

当然「推し活」なんて概念もなかった。イルミネーションスターズのCDを買ってiPhoneに取り込んで通学時間に聴くことや、櫻木真乃が出ているテレビを録画して休みの日にまとめて見るのを楽しみにしていたことに名前はついていなくて、ただぼくがそうしたいからそうしていた。今の彼女にその話をしたら、「推し活とかするタイプだったんだ、ちょっと意外かも」と言われて、過去のぼくは推し活をしていたことになった。

 

彼女は現在進行形で黛冬優子を推していて、息をするように黛冬優子のSNSの更新通知をオンにしているし、息をするようにストレイライトのライブに行く。ライブには連れていかれたこともあるし、音楽は好きだから楽しめたけど、かつて櫻木真乃に抱いていた感情と同じものを感じたかと言われればそんなことはなかった。

推しということばが浸透する前、櫻木真乃はぼくにとってなんだったのだろう。羽毛のような笑顔に、画面越しでもわかる細くてやわらかい髪の毛に、ぼくは何を感じていたのだったか。今となりにいる彼女に向けるような、現実的で少し打算的な感情では少なくともなかった。

 

高校を卒業して、大学でそれなりにいろいろなことを覚えて、音楽はSpotifyのおすすめに任せて聴くようにばかりなった。勝手になんとなく好きな気がする曲がピックアップされて耳を流れていく。なるべくがんばらないで生きていけたらいいなって思っているうちに毎日が過ぎていく。全部の人生の選択に行けたら行くよみたいな返事をして、いつか困るんだろうと予感しつつ、それが今じゃないことに安心している。

櫻木真乃を推していた頃はこうじゃなかった、と思いそうになって、櫻木真乃を推していた頃なんてなかったとも思う。推す、というのはあとから名づけられた行為で、あの頃のぼくはーーただの櫻木真乃のファンだったのかもしれないし、ただ櫻木真乃を応援したかったのかもしれないし、櫻木真乃にただ恋をしていたのかもしれなかった。

 

図書室でイヤホンをしてテスト勉強をしようとして、ありったけの輝きでが流れてきて勉強どころではなくなったことも、櫻木真乃がW.I.N.G.で優勝した日にコンビニでケーキを買ったことも、一度思い出すと新鮮な感情として心臓に直接よみがえってきた。クラスの女子ともうまく話せる柄ではなかったくせに、イルミネーションスターズの握手会に当たったら何を話そうか空想したりもした。今だったら「櫻木さんは最高の推しです!」でごまかせる感情を、あの頃はどう伝えようとしていたんだろうか。

女神だとか天使だとか、そんな崇高で非人間的な存在としては見ていなかった。櫻木真乃はアイドルで、ぼくとは遠いところ、だけど同じ世界で生活していて、夜になったら眠って、朝になったら起きながらアイドルを頑張っていることがうれしかった。付き合いたいとかそういう大それた気持ちは微塵もなくて、櫻木真乃が頑張っている地平にぼくも生きていることが素朴に心強かった。

 

いろいろ考えるのも面倒だから、櫻木真乃を推していた、ということにしてしまいたかったけど、推しだったと断言してしまうと、名前もつかないまま、好きという大きくてあたたかい枠の中で櫻木真乃を見ていた高校生のぼくと今のぼくの連続性が途切れてしまいそうで、あの頃の感情は定義しないことにした。

 

きみにとって黛さんって、推しということばを使わずに表現するとしたら何?と彼女に聞いてみたら、「え? ふゆは推しだよ、推しって推しとしか言えなくない?」と返ってきて、きっと今ではないのだけど、いつかこの人とは別れるんだろうなと思った。

野々原茜生誕祭2023「すーぱー茜ちゃんたいむ~茜ちゃんに痺れろッ!憧れろォッ!!~」FC限定公演レポ

2023.12.3 sun op 14:00/st 14:30 @765プロライブシアター

 

野々原茜生誕祭2023「すーぱー茜ちゃんたいむ~茜ちゃんに痺れろッ!憧れろォッ!!~」FC限定公演に行ってきました。誕生日じゃなきゃできないような内容ですごく楽しかったので、備忘も兼ねてブログに書くことにしました。終わって即帰りの電車で書き始めたので乱文ご容赦ください。

 

もくじ

 

開演前からもう楽しい

ファン有志からのフラワースタンドが所狭しと飾られたエントランスからホールに至るまでの廊下は、通常のポスター設置スペース以外にも壁という壁に茜ちゃん生誕祭のビラ(おそらくですが茜ちゃんの自作な気がします…笑)が貼られまくっており、着席するまでに否が応でもテンションが上がるように仕掛けられていました。

開演前の客席のひとつひとつにはフライヤーが何枚か入った袋が設置されており、中身は茜ちゃんの今後のメディア情報や楽曲情報の宣伝チラシ。劇場全体の今後の公演予定も申し訳程度に入ってはいましたが、茜ちゃんの圧の強さに始まる前から笑顔になってしまいました。「今日は来てくれてありがとう!宇宙規模美少女・茜ちゃんの爆⭐︎誕を祝える喜びを噛みしめるのだ!」という茜ちゃんの直筆メッセージが印刷されたメッセージカードまで入っていて、芸が細かい…!今日の茜ちゃんに逢えるなんてほんとラッキーです。

 

盛りだくさんすぎる本編

生誕祭本編は、茜ちゃんがSNS上で「茜ちゃん生誕は演出も全部茜ちゃんがやるよ!!お楽しみに♪」と宣言していた通り、茜ちゃんの茜ちゃんによる茜ちゃんのための公演でした。

コール講座を挟んで客席をあたためてからのソロ曲披露は、過去一の一体感だったと思います。やっぱりというかなんというか、AIKANE?の\うざカワイー!/が一番盛り上がってしまいましたね。

うざカワキャラでこんなに愛されているのは茜ちゃんをおいて他にいないとは思いますし、バラエティ番組に出たときに押しが強すぎて「美少女の押し売り」というツッコミをされたりもする茜ちゃんですが、曲を歌い終わったときのやりきった表情がドキッとするほどかわいくて、美少女という看板に偽りはまったくないことに改めて気づきました。というか、ライブや接触現場に行くたびに思い知らされている気がします…。顔がいい…顔以外も全部いいけど…。

それから、FC限定ということもあり、席番号でのくじ引き大会というパーティーゲームも設けられ、たいへんアットホームな雰囲気の一幕もありました。もちろん景品はオリジナル茜ちゃんグッズ。幸運なことに私も当選したのですが、なんと試作段階の茜ちゃんフェイス型ポーチを手に入れました!!茜ちゃんいわく、「試作第一号で見た目のカワイさにこだわりすぎちゃったけど許してニャ♪」とのことで、確かにぱっと見はカワイイけどポーチとして機能しないくらい物が入らないですね…。これではファスナーのついただけの茜ちゃんフェイスですが、カワイイので問題ありません。商品化前なのでブログに現物画像のアップはできないのですが、物が入るように改良されて発売されるのを待っています。(文字情報として公開することは、景品受け取り時にシアターの方に確認の上、許可をいただいております。)

また、事前に告知されていた「#茜ちゃんのココがカワイイ」のタグで募集・投稿されていた内容をもとに、茜ちゃんのカワイイところを司会のプロデューサーさんが読み上げ、茜ちゃんが喜びのコメントをするトークコーナーもありました。「存在全てがカワイイ。宇宙一の美少女。」「プリンを頬張ってる時がカワイイ」という投稿に嬉しそうにドヤっていた茜ちゃんでしたが、「CDお渡し会で最後まで手を振って見送ってくれるところ」「握手会にちびっこが来たときにきちんとしゃがんで目線を合わせるところが大好き」とアイドルとしての誠実な一面に言及されると、顔を赤くしていつもの軽口が出なくなっていました。ほんとカワイイな。

公演自体は90分弱と定期公演に比べればややコンパクトなものでしたが、短さを感じさせない満足感でお腹がいっぱいになりました。

 

終演後物販

また、終演後に「エントランスにてグッズ販売のお時間を設けておりますので、皆様ぜひご利用ください。なお、野々原茜によるお見送りはございませんので、何卒ご了承ください。」というアナウンスが流れ、定期公演ではたまにアイドルがお見送りしてくれるけど今回はないのか~、残念だな~、と思いながら流れるように物販列に並んだところ、販売カウンターで注文を聞いているのが「本日の主役」タスキをつけた茜ちゃん本人でひっくり返りました。物販を買えば合法的にお見送りしてもらえるシステム…!あとそのタスキ世界一似合うね…!

生誕グッズは一通り買おうと思っていたものの、常設グッズは欲しいものはもう持っているしそんなに買わなくていいかな…と思っていたはずなのに、予定の注文を告げ終えたあとに茜ちゃんに「ほんとにそれだけでいいのかニャ?」と聞かれ、気づいたら茜ちゃんステッカー10枚を追加でオーダーしていました。(たぶんこのステッカー、家に一生分あります。茜ちゃんに勧められたら用がなくても買ってしまうのは自然の摂理ですよね。)

生誕グッズは茜ちゃん人形(2023生誕ver.)や茜ちゃんスマホケース、茜ちゃんバッグチャーム、茜ちゃんせんべいと、今年も充実のラインナップでした。自室が順調に茜ちゃんフェイスに埋め尽くされていきます。

物販の列は途切れそうになく、この生誕公演が昼開始だった理由がここでわかりました。誰も終電を気にすることなくお見送り(という名の物販)列に並べるようにするためだ…!列整理のスタッフさん(服装的に765の事務員さんが駆り出されている?)が並びが長いことに申し訳なさそうにしていましたが、茜ちゃんの誕生日を祝いに来ているファンが茜ちゃんから物販を買うために並ぶことに文句を言うはずもなく、列は終始和やかに進んでいきました。

面白いので自分が物販を買ったあともしばらくその列を眺めていましたが、おそらく並んだ全員が当初予定していたより多くのグッズを買って(買わされて)嬉しそうに帰っていきました。茜ちゃんがホクホク顔で私達も嬉しいよ。

 

まとめ

総括すると、ほんとうにほんとうに良い生誕祭でした!茜ちゃんが愛されていて、私達が茜ちゃんのことを大好きであると再確認できる大切な時間でした。これからもずっと、野々原茜という、愛されるべきであることを自覚していて、愛されることに余念がなくて貪欲なアイドルのことを大好きでいようと誓いました。みんなも765プロライブシアターに行って茜ちゃんを目の当たりにしよう!

わたしの青春は全部田中摩美々だった

わたしの青春は全部田中摩美々だった。16歳だったわたしにとって摩美々の髪のむらさき色はそれまでの高校生活が色褪せるくらい鮮烈で、そこから大学を卒業するまで摩美々はわたしの生活の中心であり続けた。

茶髪にも染めるつもりがなかった髪を、高校卒業と同時にブリーチしてむらさきに染めた。決して摩美々そのものになりたいわけじゃなかったけど、摩美々は摩美々の好きな要素を追求してあの摩美々になったのだと思って、摩美々にわたしを覚えてもらいたくて、摩美々の好きそうなおしゃれをたくさんした。

googleフォトが突然通知をよこしておすすめしてきた8年前の写真のスライドショーには、怖いものなんてなんにもなさそうな顔でNADIAの短いスカートとYOSUKEの厚底ブーツ武装して、どこもかしこもアシンメトリーな衣装を着た摩美々とツーショットを撮る大学時代のわたしがいた。アイシャドウもネイルも似合うとか似合わないとか関係なしに好きな色を塗っていて、今見たら似合わない色も全然あるのに、当時のわたしは摩美々に「いいじゃーん」と言ってほしくて、あのいたずらな笑顔が見たくてただただまっすぐに必死だった。イーハイフンボンボンもファンキーフルーツも、もう捨ててしまった服ばかりだ、とスライドショーをめくり終えて思った。

もうあんなに脚なんて出せないし、アイシャドウももっぱらブラウン系のパレットばかり選ぶようになった。全身ユニクロを着ることになんの抵抗もなくなった。誰かにそうしろと言われたわけでもないけど、8年もあればゆっくりと好みも変わって、カラコンもヴィヴィアンのネックレスも、なくても生きて行けるようになった。

ぼんやりと朝のコーヒーを飲み終えて、まだ寝ている夫を起こす。とびきり美人で現実離れした8年前の摩美々の写真をひとしきり眺めた後に夫の寝顔を見ると、寝室の生活感がますます濃く感じる。この作為の介在しない生活感がこんなに大事に思えるようになるなんて、摩美々がすべてだった頃にはとても思わなかった。なんというかあの頃は、大人になれるだなんて思っていなかった気がする。

休日の朝ごはん担当の夫が半開きの目でホットサンドを作る後ろ姿を眺める。めちゃくちゃ格好いいわけでもないけど優しい声をしていて、煙草は紙巻きしか吸わない夫。普通に仲の良い、普通の共働き夫婦だと思う。ふたりともそこそこ仕事が忙しくて、でもお互い土日はきちんと休めて、一緒にごはんを食べて寝る日常が繰り返していく。そんな人生退屈で耐えられない、と学生時代は思っていたけど、社会人になって趣味に割ける時間が減って、どんどん売れて供給が増えていくアンティーカの情報を追いきれなくなって、気づけばライブからも足が遠のいていた。嫌いになったわけではない。単純に大人になって、若くなくなったんだろう。

学生時代のわたしを支えるものは摩美々しかなかった。摩美々はあんなに誰かの思い通りになんてならないって顔をしておいて絶対にファンの期待に誠実でいてくれる良きアイドルだったからその支柱は壊れずに済んだけど、あの頃のわたしは危ういバランスで成り立っていたのかもしれない。今は支柱も増えたし、自分の足で自分を支えられるようにもなった。もう思い出せない失ったものもたぶんたくさんあるけど、摩美々に青春を捧げたことへの後悔も、今なだらかに大人になっていくことへの焦りも全然ない。

「できたよ、今日の具はアボカドとハム」

「ありがとう、いただきます」

「いただきます。熱いから気をつけて」

焼きたてのホットサンドの端をかじって、朝の情報番組を適当に流す。

『ーー今日のトレンドワードはこちら! 昨日、自身初となるソロホールツアーの千秋楽を迎えた田中摩美々さんです!』

テレビに頭の中を覗かれたのかと思って、ホットサンドを持つ手に力が入る。

「あっっっつい!」

言わんこっちゃない、と笑う夫に照れ笑いを返して、テレビの中の摩美々を正面から見る。きちんと意識して見るのは何年振りだろう。相変わらず派手なメイクが映える目元のまま、あの頃の摩美々のまんま、どんな動作をしても思わせぶりに見えてしまうきれいな大人になっていた。初めて摩美々を見た時と同じように、視線が吸い込まれて釘付けになる。

そうだ、わたしはわたしが大人になれるだなんて思っていなかったのと同じように、摩美々が大人になるところなんて想像もつかなかったんだった。想像なんてできなくても、摩美々もわたしも生きていたから、当たり前に大人になったんだね。

わたしはきっともう髪をむらさき色に染めないし、摩美々はもうわたしのことを覚えていないかもしれないけど、わたしの青春が摩美々とともにあって、摩美々が大人になってもアイドルをやっていてくれて、本当によかった、と思った。

ヒーローガールと逆張りオタク

社会人になってようやく女児アニメを楽しめるようになった。

メインターゲットだったはずの女児当時は本ばかり読んでいる無口な子どもだったし、学生時代は学生時代でひねくれたオタクだったから、考察という名の深読みをさせてくれる小難しいアニメや何言ってるかわからない電波ソングばかり好きだったけど、不本意な残業をした帰りにSpotifyが勝手に流してきたアイカツ!のエンディングで意味もわからず泣いてしまってから、日曜の朝はコーヒーを淹れてテレビの前に待機するようになった。

最近はすっかりプリキュアにハマって、ソラ・ハレワタールさんのオタクだし、23話でぼろぼろに泣いたし、プリティホリックのキュアスカイのリップを通勤カバンに忍ばせている。さすがにテレビに向かって声を出してプリキュアを応援したりはしないけど、心の中では毎週、必死で彼女たちの勝利を、彼女たちにとっての最善を祈っている。

 

月に一度、オタク仲間5人で集まってその時ハマっているコンテンツをプレゼンする会があって(普通のカラオケ兼飲み会なんだけど、オタクが集まるので自動的にプレゼン大会になる)、ここ数回はずっとひろプリの話をしている。ソラ・ハレワタールさんがヒーローたるゆえん、女の子がヒーローになっても、ヒーローに憧れてもいい(もちろんならなくても、憧れなくてもいい)権利を得たこと、ソラさんとましろさんの関係の描かれ方、ツバサくん回で示された勉強することの意義、キュアバタフライの変身バンクの華やかさ。次はキュアマジェスティの耳飾りが(プリンセスのパブリックイメージから導かれるようなフェミニンに揺れるイヤリングではなく)ごついイヤーカフだったことを話そうか。

もちろんお互いに布教したいものを貸し借りもしているので、今手元にはジャンケットバンクの単行本とユニゾンスクエアガーデンのアルバムがある。どっちも全然知らなかったけどめちゃくちゃよかった。

 

友人たちへの返却物を持って、今日のプレゼン内容を頭の中でまとめて家を出る。大学で出会って、お互いいろんなジャンルを行き来するオタクの集まりなのに、今もこうして交流が続いているのはありがたい。趣味がかぶりすぎないからか解釈戦争が起きたこともなく、5人全員が好き勝手にオタクをやって生きている。でも、たとえば次回わたしが「キュアマジェスティが揃ったので5人で概念ネイルをして集まりたい」と提案すれば(プリキュアに興味のない友人もノリノリで)爪を塗ってきてくれるようなところが好きだなと思う。

予約してあったカラオケのプロジェクタールームで覚えたてのユニゾンを入れたら、「サヤ、シュガビタとかの爆売れ曲じゃなくカップリング曲とかアルバム曲ばっか気に入るあたり、女児アニメ見れるようになっても逆張りオタクなの変わらんよね」と笑われて、ぐうの音も出なかったので「ぐう」と言って笑い返した。

「ねーそろそろ持ってきた円盤流してもいい? 今の矢崎は2.5とアイドルがアツいがどっちがよろしいか」

カラオケがひと段落したころ、矢崎が丁寧にプチプチに包まれたディスクケースを紙の手提げから出す。出会った当初は乙女ゲーに目がなかった彼女が今は舞台の上とはいえ三次元の人間を好きになっていることに、時の流れを感じる。(でも、いくら見た目が垢ぬけても一人称が自分の苗字なところはずっとオタクっぽくて安心する。)

「アイドルってどのへん? 坂道とLDHくらいしかわからん」

LDHってアイドルなの?」

「じゃあ矢崎の推しアイドルのライブ映像流すわ、今に見てろよ」

「今から見るんだよ」

なぜか喧嘩腰の矢崎がディスクを入れる。読み込みの間にとりあえず全員がカバンからキンブレを取り出した。なんでとりあえずで全員がキンブレを取り出すことができるのかなんて、最早誰も聞かない。

矢崎がハマるんだから楽しいものなんだろうと思いつつ、キンブレを構えながらも「アイドル……アイドルか」という思いが同時に湧く。三次元のアイドルということは人間であるということで、アニメみたいな物語性が完璧には保証されていないことが正直不安だった。ステージのポップアップからスーパーボールみたいに飛び上がって登場する5人の女の子たちの名前やカラーを解説されながら、無意識にあまり心の距離を近づけすぎないようにしていた。

「矢崎の推し、どれ?」

「凜世ちゃん。青の子。顔と声と歌と背丈と言葉の選び方が推せる」

「全部じゃん」

わたしと同じ人間とは思えないような粗のない肌と笑顔、普段づかいと対極にあるビビッドな配色の衣装。どういう努力をしたらそんなに楽しそうに、ステージなんか狭くてかなわないっていうみたいに走り回れるんだろう。

自分の中のアイドルの引き出しがアイカツ!しかないから、アイカツ!のステージみたいだ、と思った。順番がおかしいんだけど、でも、あんなに理想化された二次元の世界が三次元と重なりうることに驚いた。

自己紹介のMCとそれに盛り上がる矢崎を聞きながら、三次元の存在を推したことがないな、とぼんやり考える。アニメとか漫画のキャラクターは基本的に作者によって描かれているものがすべてだから、わたしのソラ・ハレワタールさんを好きな気持ちにはあまり隙間がない。提示されるひろプリの情報はほとんど追いかけているから、ソラさんの全部を好きだと言える自信が持てる。

でも、アイドルってプライベートは見えないし、見えるべきでもないし、表に出してもいいとアイドル本人や事務所に判断された情報だけを享受して「推し」と呼ぶことはなんか、怖かった。同じ人間同士なのに、一方的な気遣いだらけのやさしさに甘えているようで。

「次ペンラ赤ね!」

逆張りオタクの思考に囚われているところに矢崎の指示が飛ぶ。赤がセンターの5人組アイドル、放課後クライマックスガールズ。ここまでは覚えた。

「果穂ちゃんはね、ヒーローアイドルなんだー。サヤの推しプリキュアと似てるね」

ソロ曲が始まる直前の矢崎の一瞬の解説に気を取られる。もっと詳しく説明してほしかったけど、矢崎はそのままキンブレを振るのに忙しくなってしまった。女の子がヒーローになってもいいんだ、とソラさんが安心させてくれたことを、画面の中の客席が真っ赤なひかりに染まるカメラワークを見ながら思い出した。

始まったのは一生懸命な歌声だった。本当はもっとはしゃぎたくて仕方ないけど、アイドルとして歌に乗せられるのはこれがもう限界、みたいな歌声。ところどころに入る戦隊ものの決めポーズみたいな振付があまりに嬉しそうで、アイドルがヒーローを好きでもいいんだ、と思った。ニチアサ梯子勢がTLにたくさんいるから、間奏の振りにジャスティスレッドのポーズが入っていたのがわかった。

サビの歌詞は青空についてだった。こんなことを思うのは運命を信じているみたいで悔しかったけど、ソラさんと果穂ちゃんがヒーローというラインでつながったみたいで、最終的にカラコンが乾くくらいに見入ってしまった。

 

ディスクの再生が終わるころには5人中3人のオタクが泣いていた(うち1人矢崎)。わたしは泣かなかった。ここまで来ても果穂ちゃんを好きになることにひとりじたばたと抵抗していた。

「キュアスカイが好きなら果穂ちゃんも好きでしょこれは……」

「それは暴論だよ、二人とも別個の存在なんだからそうやって属性で語るのはよくないと思う……」

「サヤがそうやって言い訳を探すときってだいたいハマる時だよ、わたしたちは知ってるんだからな」

自分でも予感していることを、友人たちにもとうにわかられている。それでもいつもより認めたくないのは、やっぱり果穂ちゃんが誰かにつくられたキャラクターではなく人間であるからだった。キャラクターなら、自己満足の愛の証明として祭壇でも生誕パーティーでも概念コーデでもやればいいし、オタクとしての行為がキャラクターに知れたり引かれたりすることはないって安心感がある。でも、これから果穂ちゃんを推していく行為は、アイドルがいちいちファンの行動を目に入れるかは別として、果穂ちゃんとわたしが同次元にいるという意味で、果穂ちゃんそのものに伝わりうる。たぶんわたしは一方的に愛したり憧れたりしていたいオタクだから、それが怖くて仕方ないのだった。

「サヤは三日くらい悩んでから「沼りました」ってラインしてくるね、獅子神敬一の魂を賭けてもいい」

「矢崎は一日でライン来るに919くんの魂を! 凛世ちゃんのは絶対賭けれないので」

「ワンチャン別にハマらんに田淵の魂」

もだもだと悩むわたしをよそに、各々の推しの魂で賭けが始まっている。友達が次元を乗り越えようとしているのにのんきなものだ。でも、女の子がヒーローになってもいいし、アイドルがヒーローに憧れてもいいってわたしは知っているんだから、二次元オタクが三次元の人間を好きになっても、いいのかもしれない。

肺からあふれ出るきみの名前は澄むべきだから

適当に買ったカップラーメンをデスクで食べ終えて、ぼんやりとタイムラインをスクロールしてから共用の喫煙所に行く。カップ麺のスープでコーティングされていた舌が、キャスター5ミリの煙に浸食されていく。

煙草が好きかと言われると、ただ習慣になっているから喫煙所に吸い込まれてしまうだけな気がする。家でも狭いキッチンの換気扇下の閉塞感が落ち着くから、そこに収まるために吸っている。

同僚の「まだ紙巻き吸ってるんですか、アイコスの方がどこでも吸えて楽ですって」という何度目かの勧誘に「火をつけたいんだよ、火を」といつものように返して、声帯の震えとともに肺から出ていく煙の味を見送る。声と一緒に出ていく煙は、ただ吐き出すより雑味が多い。

 

前の飲み会で上司に「戸山さん煙草吸うんだ!? 意外だねえ」と言われて、若めの女性社員が煙草吸うことくらい当然の事象のひとつとして想定しておけよと思ったけど、「そういうリアクションされるのが面白くて吸ってるとこありますね~」と適当に答えたことを思い出した。まさか本当に他人のリアクション目当てで吸ってるわけないのに。

でも、じゃあどうしてわたしが喫煙者なのかを考えると、まあそれは大学のころ付き合っていた人が喫煙者だったからではあるんだけど、とうに別れた今もまだわたしが煙草を吸っている理由にはならないような気もした。その人の顔も、はっきり覚えているかと言われると怪しい。年上の人で、当時はずいぶんと熱を上げていたはずなんだけど、あの時のわたしがどういう思考回路をたどってその人を好きだったのかいつの間にかわからなくなってしまった。間違いなくわたしの過去ではあるのに、連続性のない誰かが吸い始めた煙草をわたしが引き継いで吸っているみたいだった。

 

キャスターが指の先でちりちりと短くなっていく。感動的においしいわけでは決してないし、同僚がよく言うイライラが鎮まるだとか頭が冴えるとかを実感したこともあまりない。それでも二本目に火をつけてしまうのは、フリント式のライターの着火音が安心するからだった。一口目を吸い込むと、自分の身体の中の肺のありかがわかる。

 

特に喜びもないまま二本目も吸い終わって、灰皿のふちで吸殻をねじ消す。指に移った煙の香りは好きじゃない。どうして煙草なんて吸っちゃったんだろうって毎回思う。口の中も苦くて、デスクに戻って飲みさしのカフェオレを口に含んだ。

 

残り数分の昼休みを微妙に持て余して、またタイムラインを繰る。「本日昼12時よりチケット一般発売開始!」の文字に指を止めると、アンティーカのライブのチケットの一般がさっき始まったみたいだった。ローチケを見てみると残席余裕ありの表示が出ていて、珍しいな、と思う。

いつもならFC先行と先行抽選でほとんどのチケットが捌けて一般発売なんて瞬殺なのに、やっぱり今回のワンマンは今までで一番大きいキャパで挑戦すると言っていたから事情が違うんだろう。公演まで日はあるから埋まらないなんてこともないだろうけど。

ふと、空席のあるライブの空想が浮かんでくる。たとえば後ろの数列が空いてしまったとして、アンティーカ本人たちには見えるんだろうか。

これまでファンクラブに入っていないことと一般ではチケットが取れないことを言い訳にぬるい在宅オタクをやっていたけど、推しが、初めてやる規模の大きな会場で、空席を見つけてしまったら、とひとつひとつの要素を重ねていったら、指が勝手にローチケのログイン画面に進んでいた。学生時代に登録したアカウントをiPhoneが覚えていて、あっさりログインできてしまう。

一席埋めたところで何になるの、と冷笑するわたしを、iPhoneのカード番号自動入力機能がまたあっさりと突破していく。昼休みがギリギリ終わらないうちにチケット購入完了画面までたどり着けてしまった。

電子チケットだから席がわかるのはまだ先だけど、見やすいところは先行で埋まっているだろうからわたしが取れたのなんてたぶん後ろの端っこだろう。これまで円盤でしか見てこなかった客席のペンライトのひとつになれるのだという感慨と、推しの視界には別に入らないのだろうなという冷静さが同居していた。メンバーMCの合いの手に推しの名前を叫んだりするやつも、ちょっとやってみたいけど、声が届くような席ではないのだろう。

「…………あー」

のろのろと仕事に戻りながら、鳴き声みたいな声が口から出た。カフェオレで上書きした苦い口。肺の奥に滞る煙の匂い。このまま推しの名前を呼んだら、この苦さが追いかけてくるのか。

 

「戸山さん、最近喫煙所にいなくない?」と同僚に聞かれて、きんえんちゅー、とだけ答えた。ライブはもう明日まで迫っていて、チケットは予定枚数終了になっていた。

 

電子チケットに表示された席は案の定二階席の後ろから3列目で、肉眼で推しの表情がわかるかどうか怪しかった。でも、アンティーカのグッズに身を包んだ人がたくさんいて、ここにいる誰もが浮き足立っていて、ここに自分が存在していることがうれしかった。

開演時間になって会場が暗転してからのことは、目まぐるしくて記憶がちかちかしている。息つく暇もなく大好きな曲だけが惜しげもなく目の前で披露されていく。スクリーンに大写しになるそれぞれの决め顔は、これまで小さな画面で見てきたどの表情よりも説得力のあるときめきだった。

「それじゃあ、初めてアンティーカを見るお客さんもいると思うので、ここで改めて自己紹介をば! みんなの声、ちゃんと聞かせてね〜?」

三峰のいたずらっぽい笑顔に、客席が沸き立つ。それぞれの自己紹介に合わせて、会場全体のペンライトがピンク、むらさき、緑、青に染まる。隣の三峰推しのお兄さんはよく通る声で、きっとここからでも三峰に聞こえているのだろうと思った。

「そして最後は〜、きりりん!」

「はい……! 幽谷霧子です、今日は来てくれてありがとうございます……!」

……ああ。もう。席が遠いとかそんなのどうでもよくて、この透明で静謐な推しを直接見ることはこんなにも胸にくることだった。わたしの心の中の聖域にいるたったひとりの推しが今ここにいる。わたしの口は、声は、喉は、肺は、煙草を吸うためじゃなく今日のためにあった。だから、

「き、きりこー……!!」

苦い煙の味がしないこの声は、霧子にきっと届いたと思う。

カミサマ推しのわたしたち

アイドル文学論

提出日・2023-7-8

所属:文学部 小説・散文コース

氏名:折原 ゆづき

学籍番号:370L58-1

カミサマ推しのわたしたち

1 カミサマ・斑鳩ルカ

 カミサマと呼ばれるアイドルがいる。現在はソロで活動する斑鳩ルカだ。(かつては二人組のユニットを組んでいたが、本レポートで触れるのはソロ活動以降の斑鳩ルカであるため、ここでは割愛する)

 彼女の透明度の低い黒髪には、警告色のようなブリーチのメッシュが対比するように入っている。目つきは鋭く、あまり笑わない。ライブ衣装も黒を基調にしたものが多く、アイドルという存在の王道が「歌とダンスでファンに元気と笑顔を与える」という趣旨のものだとするならば、斑鳩ルカは王道からは外れたアイドルなのだろう。

 王道ではないことと人気がないこととはイコールにならず、斑鳩ルカのツイスタのフォロワー数は2023年7月現在で20万人を超える。アカウントの投稿内容は多くのアイドルがそうするような自撮り写真も多いが、ただ移動中の車窓を撮っただけに見える画像に「きえる 私」等の短文を添えた投稿がなされることもある。そして後者の投稿は筆者の体感6割程度の確率で数時間~数日の間に消えている。このいつ消えるとも限らない、そして言ってしまえば具体性を欠く投稿だが、ファンからのコメントは瞬く間に増える。内容はたとえば斑鳩ルカが「病んでいる」と感じたファンからの心配であったり、同じタイミングで「病み」を感じていたファンからの同調だったりする。(ここで言う「病む」という単語については、現代の10代から20代前半の若者ーーZ世代の、特に女性ーーに比較的共通する、突如やってくる気分の落ち込みややけっぱちな気分とする。)

 このSNS上のコメントでも、斑鳩ルカは「カミサマ」と呼び掛けられる。先述のような「病み」投稿*1についたコメントをランダムにピックアップすると、「カミサマ、泣いてるの?」「カミサマを傷つける世界なんか間違ってる」等が挙げられる。

 このレポートでは、斑鳩ルカの呼称とそれにまつわる諸問題について考察していく。

 

2 カミサマがいないと病んじゃうわたしたち

 第1節でさも他人事のように斑鳩ルカの特徴やZ世代における「病む」という単語について言及したが、筆者はZ世代ど真ん中であり、斑鳩ルカのファンである。そのため、本レポートがどこまで客観性を担保できるか不明であるが、せっかく同時代性のあるテーマでレポートを書けるチャンスであるため、ファンダムの内側からしか観測できない内容になればいいと思う。

 別のアイドルが好きな同級生から、「ルカ信者は見たらすぐわかる」と言われたことがある。その言葉は私個人の普段の恰好や言動を指して言ったものだったが、斑鳩ルカのファン全体を見回しても当てはまるものでもある。わざと血色を殺して不健康そうに見せる地雷系メイク、EAT MEやMA*RSに代表されるような黒とくすみピンクを基調とした地雷系ファッション(あるいは斑鳩ルカ本人の私服と同じブランドを取り入れたピープス系)、そして一様に斑鳩ルカを「信仰している」振る舞い。誰かに「カミサマ」を語るときの声音やいわゆる痛バッグ*2にかける気合が、他のアイドルを推しているファンとは違うのだそうだ。

 要するに遠回しに「ルカファンは異質」と言われたのだが、ルカファンにとってはーー少なくとも筆者にとってはーールカを好きになるのは普通のことだし、ルカに対しての愛を表明するための手段も特別変わったものではないように感じる。普通に生きてきたらこうなった。

 筆者が推し活用のツイスタアカウントでつながっているルカファンの多くにも、筆者と似たものを感じる。斑鳩ルカのライブ後にファン同士で打ち上げに行くと、「ルカのために生きてる」「ルカがわたしのカミサマになってくれてよかった」というような言葉で推しを表現するのが恒例になってすらいる。そしてその斑鳩ルカへの愛に続く言葉は、決まって「ルカがいなくなったら”死んじゃう”」なのだ。

 これは決まり文句だからそう言っているとかではなく、実感としてそうだから出る言葉だ。斑鳩ルカがいないと生きていけない。だいたい常に病んでいて、ずっとちょっとずつ死にたい日々を救ってくれるのが斑鳩ルカという存在なのだ。かっこよくて、ダウナーで、誰にも媚びなくて、「わたしたち」にちょっと似ていて、だけど「わたしたち」は絶対斑鳩ルカになれない。「わたしたち」のあこがれを精製してちょっとだけ病んだ現実を混ぜたような存在を、斑鳩ルカのファンは信仰する。

 心身が健康な人は、死にたいと口にするのはおかしいことだから健康であるべきだと言う。そう言われるたび筆者は、別にそういうことではない、と思ってきた。気圧と天候とバイオリズムと恋愛模様と、あとアンコントローラブルな自分の機嫌に振り回されて、自分という荷物が重すぎて抱えきれなくなることを、全部なんとなく包括してくれる表現が「病む」だったり「死にたい」だったりするのだ。そしてどうやったって陥ってきたその表現たちを考えずに済むように心の大部分を信仰で占めてくれるから、斑鳩ルカはカミサマなのだ。

 

3 カミサマへの祈りは受け取られるか

 斑鳩ルカの言動は時にトリッキーで、ライブでもよくスタートが押したりアンコールが「疲れたから」という理由でなくなったりする。しかし、そのライブでの斑鳩ルカはアンコールとしての歌を歌いはしなかったものの終演後に顔を見せに再登壇しており、トリッキーではあるがファンに対して不誠実な態度をとっているわけではないように感じる。

 笑顔がまぶしくて見た者を明るい気持ちにさせるいわば「THE アイドル」と斑鳩ルカというアイドルとはかけ離れているというのは冒頭で述べた通りだが、わけもなく惹かれてしまう魅力や熱狂的なファンを多く率いるカリスマ性を斑鳩ルカが持っていることは、前述した(筆者のような!)「異質なファンたち」のわかりやすさやツイスタのフォロワー数に証明されると言っていいだろう。

 しかし、ツイスタの20万を超えるフォロワー数がすべて彼女の純粋なファンなのだろうか、という疑問もある。というのも、googleフォームを使用して複数のSNS上でアンケートの回答を募ったところ、「斑鳩ルカのアカウントをフォローしているが、彼女がアイドルであることを知らない」という層が一定数存在するからだ。筆者とつながりのある層を起点に拡散に協力してもらったアンケートであるため回答の内訳に偏りはあるが、各設問に対するYES/NOの回答比率は下記の通りだった。(総回答数369件、回答比率の小数第二位以下は四捨五入)

 

斑鳩ルカを知っているか(YES 80.2%/NO 19.8%)

斑鳩ルカのツイスタアカウントを見たことがあるか(YES 75.1%/NO 24.9%)

斑鳩ルカのツイスタアカウントをフォローしているか(YES 69.0%/NO 31.0%)

斑鳩ルカがアイドルであることを知っているか(YES 60.3%/NO 39.7%)

斑鳩ルカがパフォーマンスをしているところを、直接あるいは動画で見たことがあるか(YES 42.8%/NO 57.2%)

斑鳩ルカがリリースしている楽曲のタイトルを一曲でも挙げることができるか(YES 37.4%/NO 62.6%)

 

 斑鳩ルカという存在の認知度はやはり8割と高い。しかし、アイドルであるということの認知度は6割と大きく下がり、実際のアイドル活動に興味を持つ回答者の割合はさらに下がる。斑鳩ルカに限らず、現代のSNSやテレビ番組に露出する存在の肩書は多様化しており、SNS勃興前はアイドル・俳優(女優)・タレント・モデル・お笑い芸人等のくくりに収まっていたところから、YouTuber・Tiktoker・ツイスタグラマー(包括してインフルエンサーと認識されることが多いだろう)等の新しい存在が当たり前に受け入れられている。肩書の数が増えた結果、むしろ「どんな肩書を背負っているかは知らないしこだわらないが、よく情報が目に入ってくるためその存在だけは知っている」という認識の仕方が増えているのではないだろうか。

 また、「斑鳩ルカのツイスタアカウントをフォローしているか」にYESと答えた回答者へ、記述回答の設問として「なぜ斑鳩ルカのアカウントをフォローしているか」と質問した。当然「ルカ様のファンだから」「カミサマ推しだから」と斑鳩ルカという存在を好意的に見る回答が多く見られたが、「服がおしゃれだから」「顔がきれいだから」「フォロワーが多いから」というツイスタ上で完結する(=ツイスタの外の斑鳩ルカに興味を持たない)理由もその次に多かった。これは先述の「斑鳩ルカがアイドルであると知らない層」の存在とリンクするものだろう。

 この質問結果の中に、気になる回答があった。「病みツイを見たいから」という内容のものである。正直なところ二、三はこういう意見があるだろうとは踏んでいたが、結果としてこのような内容の回答は13件あった。どれも短文での回答であったし、匿名でのアンケートだったため、この「病みツイを見たい」という動機に含まれる感情がどのようなものか回答者本人に確認することはできない。しかし、筆者が(こんなに多いとは思わなかったとはいえ)同じような回答が来るだろうと想定していたのも事実であり、どのような感情が含まれているのか推察することはできる。他人が病んでいることを確認するのは、自分も病んでいる状態で見れば自分だけではないと安心する材料になるだろうし、自分が病んでいない状態で見れば憐憫の情を持つことで自分が優位に立ったように感じることができるだろう。あるいは野次馬根性というのか、他人が幸福でない状況にあることを眺めるのが娯楽と感じる人間もいるのかもしれない。

 斑鳩ルカのファンとしての筆者からすれば、わたしの大切な推しが病んでいるのを見て面白がるな、自分を安心させるための材料にするな、と言いたいところだが、だからといって筆者自身が斑鳩ルカの理解者たりえるかといえばそんなことはない。斑鳩ルカが病んでいることがツイスタの通知からどれだけ伝わってきても、彼女の横に座って手を握ってあげることもできず、ただ慰めになるかもわからないコメントを打ち込むことしかできないのだ。コメント欄が閉鎖されない以上このことばは斑鳩ルカに届いているのだと信じながら、祈るように彼女を想うしかない。

 

4 ほんとは神様じゃないって知ってる

 第2節で述べたように、斑鳩ルカはファンが持つ放っておくと病んでしまう思考を、自身へのファナティックな情熱で上書きすることで病みから救ってくれるという意味で、「与える」カミサマであると言える。それと同時に、第3節で結んだように、斑鳩ルカが発信する病みに対しファンができることが祈りしかないという点で、斑鳩ルカは「祈られる」カミサマであるとも言える。たった二十年しか生きていない人間を20万人のフォロワーがこぞって「カミサマ」と認識するのは、この「与える」と「祈られる」の両方が揃っているからではないか。

 これまでの講義で様々な角度から定義された「アイドル」だが、「歌とダンスでファンを笑顔にする」「アイドルの笑顔がファンの希望になる」といった「与える」側の定義が多かったように感じる。対して、特に日本という無宗教色の強い文化圏において「祈り」というのは、それ以外にどうすることもできない時に発生する行為であると考えられ、そこには不安定な感情が付きまとう。そのため、全体的に光の方向を指している「与えるアイドル」には、なかなか「祈り」は発生しないだろう。「与えつつ、祈られる」という状況を絶妙なバランスで保っているのが斑鳩ルカだとすれば、他のアイドルがカミサマと呼ばれず、斑鳩ルカがカミサマと呼ばれる理由はそこにあるのではないだろうか。

 しかし、ーーこれは斑鳩ルカのライブに通って感じた主観だがーー斑鳩ルカは二人組ユニットだったころより今のソロの方が苦しそうに歌うようになった。パートナーがいないプレッシャーなのかもしれないし、ファンには知りえない辛いことがあったのかもしれない。彼女がいくらカミサマと呼ばれようと、人間である以上本物の神様ではない。わたしたちファンにとってはカミサマに救われたり祈ったりすることも含めて「推し活」だが、斑鳩ルカ本人が「病んだ」の一言では片づけられない辛さに直面した時、わたしたちにとっての斑鳩ルカのような存在はいるのだろうか。アイドルとファンの関係がステージと客席の高さの差の分だけ不均衡であるように、わたしたちが斑鳩ルカを本当の意味で救うことは多分できない。彼女が救われてほしいと祈れば祈るほど、その祈りがますます彼女をカミサマにしてしまう。

 斑鳩ルカはあまり笑わないが、笑うときは本当に幸せそうに笑う。それを知っているファンとして筆者ができるのは、彼女がまだ二十歳のーー自分のこともままならない筆者と同い年のーー人間であることを忘れないことなのかもしれない。

*1:例に挙げたものは2022年12月の投稿であるが、本レポートの評価が出るころにも閲覧可能とは限らない

*2:ライブ会場の物販で売られる缶バッチやチェキなどのグッズを所せましと飾った「見せるための」バッグのこと

持続可能なパステル・パープル

思えば小糸と一緒に大人になった。

小糸とわたしは同い年で、小糸がアイドルとして大きくなっていくのを全部見てきた。デビュー当初は控えめで、目立ってなんぼのアイドルなのに透たちのうしろに隠れてさえいた小糸が、それでもファンレターの返事に「アイドルを頑張る」と書いてくれたこと、芯のある大きな声で話せるようになったこと、5センチくらい身長が伸びたこと。

この前のチェキ会で、ねえどうしよう小糸、わたしたち今年からお酒飲めるよ、と話したとき、小糸は「い、いきなり強いお酒飲んじゃだめだよひばりちゃん、アルコールが合わない体質だってあるんだから、最初は何かあっても助けてくれる人のいるところで飲むんだよ」って真っ当な返しをしてきて、大人になっても小糸はこれまでの小糸と地続きだなと思ってすごくうれしかった。

 

今日はノクチルのワンマンツアー二か所目の仙台公演で、そこそこ大きな会場のチケットだったのに先行販売だけでほぼ売り切れていた。ファンクラブ先行で取ったのもあって手元にあるチケットは幸い一階席三列目と申し分ない大当たり席だったけど、どんどん動員数を増やしているノクチルが遠くに行ってしまう感覚は否めない。

小糸のソロでの仕事も増えてみんなに名前が知られるようになって、わたしが「好きなアイドルは福丸小糸です」と言った時に「知ってる」「かわいいよね」って言ってもらえることはもちろん本当にうれしいし、売れないで、わたしだけが知ってるアイドルでいてなんて呪いみたいなことを思うつもりはない。でも心のどこかでほんの少しさびしくて、直接お話しができるタイプのリリイベがいつまであるのか、むらさきのペンラの数がどんどん増えていく中で、小糸がいつまでわたしの名前を呼んでくれるのか、考えてしまうことはある。

まあライブが始まってしまえばそんなオタクのジレンマなんて吹っ飛んでしまって、自分宛てのうちわを見つけるたびに器用にハートやピースで応えていく小糸が、ペンラしか持っていないわたし(=うちわを家に忘れて遠征に来た愚かなオタク)の顔を見ただけで手をぶんぶん振ってファンサをくれるから、幸せで胸がいっぱいになる。ファン歴が長くて、たまたま同い年という共通点があって、ライブ中でもファンの顔を一人ずつ見つめてくれる小糸を好きだからこその特権みたいなレス。最近ノクチルを好きになった人からすればずるいと思われるのかなとちょっと思うけど、去年送ったファンレターにそのことを書いたら「ひばりちゃんがわたしを好きになってくれた結果として今があります。だからずるくないと思います。」って返事が来て、それからは堂々とファンサを受け止められるようになった。

小糸がわたしを認識してくれることは決して当たり前のことではなくて、だけどこうして何年も認識してもらっていると脳が慣れてしまいそうで、いつかノクチルが観客のひとりひとりを視認できないくらいの大きな会場を埋めてしまったとき、わたしはどんな気持ちになるだろう、と小糸のソロパートが終わった一瞬の間に考えて、振り払った。

多幸感と清涼感と感傷を混ぜたようなライブ終わりの道を、予約してあるビジネスホテルまで歩く。たぶんもっと近い道があるはずだけど、仙台は駅周辺の地理しかわからないのでわざわざ駅構内を通り抜けて反対側の出口に出た。小糸が今朝インスタに上げていたペデストリアンデッキからの景色を、同じ構図で記念撮影した。

 

可もなく不可もないビジネスホテルの朝食バイキングを食べて、荷物をまとめて帰りの自由席切符を買いに駅へ向かう。駅に大きく掲げられた萩の月の看板を見て、「浅倉と雛菜、アンコールで出てくる前の数分で萩の月食べてた」「だって袖に置いてあったし~~!」という昨日のMCを思い出す。ノクチル、デビュー当初は若さゆえの自由みたいに言われてたけど全員が二十歳超えた今も全然自由だ。

荷物は少なくしてきたし少し観光的なことをしてから帰るのもありかな、次の接触の時に小糸にあげるお土産とか探してもいいけど、小糸も仙台にいたのに仙台土産ってなんか変かな、と考えながらふらふら商店街を歩く。

ファン歴が長いとあげたものも比較的多くて、いくらあっても困らないであろうTシャツやピン留めももう他のファンから含めもらい飽きているかもしれない(小糸は飽きるとかなくひとつひとつを大事に使うに決まってるけど!)から、結局小糸がインライの質問コーナーで答えていた愛用のシャンプーとかバスソルトが無難なのかもしれない、と最近は思い始めている。最初のころは小糸が欲しいと思ってくれそうなものを頭をひねって考えていたけど、あげたもののうちのいくつかは事務所の倉庫を圧迫してたりして。

「ね~牛タン食べたい! 地元のファンの人から利休がいいって聞いた~!」

「も、もうちょっと静かに……!」

急に聞き慣れた声が斜め後ろから聞こえて、飛び出そうになった心臓を抑えて目線だけで少し振り返る。

「ファンの人だって牛タン食べに来てるかもだし……! 個室のとこ探そ……!」

小声で雛菜ちゃんを説得する小糸の後ろ姿が視界の端に見えて、なるべく動じていないふりをしながらふたりの進行方向と反対に歩く。ここで話しかけるのはなんか、ルール違反な気がする。

高そうなサングラスをかけた雛菜ちゃんと帽子を目深にかぶった小糸のツーショットをつい横目で見てしまいながらすれ違う。すごい、やっぱ、知ってたけど、かわいい。国宝?

「ぴぁっ」

わたしが持っていたのがノクチルトート(パープル)だったせいか、必死で目を合わせないようにしていたのに小糸がこっちを向いてしまう。

小糸は眼鏡をかけていた。たぶん変装用の伊達眼鏡。そしてわたしはその眼鏡のことを知っていた。わたしが一番最初にあげたプレゼント。いつか小糸がすごくすごく有名になったら、変装しないと街が大変なことになっちゃうから、その時に使ってねって言って渡したプレゼント。まだ握手会の小糸列もあまり長くない頃だったから、小糸はいつか使える日が来るといいななんて言って笑っていた。それを。

「ひ、ひばりちゃーん……!」

すれ違う瞬間、本当に小さい声で小糸が言った。わたしが小糸の声を聞き逃すはずがないってわかっているみたいなボリュームの声。わたしが小糸の名前を大声で呼び返したらきっとこの商店街が大騒ぎになってしまうから、小さく手を振る。

 

呆然とした頭で新幹線の窓を見ながら考える。

どれだけ売れても小糸は小糸で、いつだって今日が今までで一番のファンサで、最新の小糸が最高にかわいい。小糸のことを好きでよかったって、もう何度目かわからないけど心の底から思った。