アイドル現場レポ日記

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まつり姫は幸せに暮らしましたとさ(めでたし、めでたし?)ーサブカル文学論期末レポート

学籍No.xxxxxxx

文学部日本文学専攻 ■■ ■■

サブカル文学論期末レポート

「まつり姫は幸せに暮らしましたとさ(めでたし、めでたし?)」

 

 

  • Ⅰ,徳川まつりとはなんだったのか――徳川まつりとは現象だった/幻想だった

 先月卒業公演を終え、芸能界からも完全に引退した、元765プロ所属のアイドル、徳川まつり。彼女の各SNSアカウントは卒業公演当日の23:59をもってすべて削除され、アイドル・徳川まつりのことばが発信されることはなくなった。

 

 2000人規模のホールでの卒業公演を即日完売にするほどの人気を誇った徳川まつりは、テレビや雑誌、各インターネットメディアでもたびたび注目を集めていた。デビュー当初こそいわゆる「イロモノ」的な扱いを受けていたこともある(独特の喋り方や世界観、「姫」を自称する等が原因だったと思われる)が、その一般的に見れば「ぶっ飛んでいる」キャラクターでの振る舞いが話題を呼び、また、どんな無茶な状況下でも「姫」であることを崩さない姿勢がプロ意識と評価されたりもした。徳川まつりは次第に司会者クラスの芸人や大御所タレントにまで「まつり姫」と呼ばれだし、その「ふわふわきゅーと」なキャラクターも徳川まつりそのものとして世間に浸透した。徳川まつりは「姫」である、という意識を誰もが内在化したのである。(初期はごく少数のアンチも存在したが、アンチスレでの徳川まつりを指すことばが「オヒメサマ」だったことからも、彼女への好感の多寡にかかわらず徳川まつり=姫という意識の内在化がうかがえる。※当該アンチスレは現在削除済み)

 

 徳川まつりのファンは、上述のような徳川まつりの一貫した「まつり姫というアイドル」の姿勢を目の当たりにしており、その「等身大の女の子」とはどこかずれた偶像に、しかし疑問を挟む余地はなかった。どれほど「キャラ作りではないか」「電波系不思議ちゃんアイドル」と悪意ある外野に言われたところで、「眼前のアイドル・徳川まつりは(たとえ幻想であったとしても)絶対に本物である」というメタ的な信頼のほうが圧倒的に勝っていた。

 

 卒業公演の一夜にして徳川まつりというアイドルは姿を消し、それまでファンが徳川まつりに向けていたリプライは宛所不明のツイートとして残った。一部の熱心なファンは、存在しないアカウントとなった徳川まつりのIDに、リプライという名のツイートを今も続けているという。

 

 

  • Ⅱ,誰も彼女の仮面を剥がせなかった――仮面など存在したのか?

 Ⅰで述べた通り、デビュー当初からその言動について「キャラ作り」と言われてきた徳川まつりだが、その「キャラ」が表立って崩壊したことは一度もない。

 

 特にバラエティ番組は、一時期徳川まつりのお姫様キャラをぶれさせることに必死になっていた。スポーツバラエティ番組で汗だくのへとへとになる画を撮りたがったり(ルールすらよくわからないまま出場したというアイドル野球イベントで、徳川まつりは涼しい顔で「偶然」スーパープレイをやってのけた)、ずけずけものの本質を言う口の悪い芸人Aとトークさせたり(徳川まつりは何を言われても笑顔をひとつも崩さず、最終的に言い返されてタジタジになった芸人にマシュマロをプレゼントして自身の口癖である「わんだほー!」を(半ば強制的に)言わせる流れを作った)、テレビが/視聴者が期待したような徳川まつりの「人間性の露呈」は起きなかった。(なお、芸人AはのちにTwitterで「あれは台本の流れとは違ったが、台本より面白かったのでオンエアに乗った」という旨のツイートをしている)

 

 デビュー初期から中期に起きた上記のようなテレビ上での出来事から、露呈するような隠匿すべき人間性などそもそも徳川まつりには存在しないのではないか、という疑念が、ファンも非ファンも含む多くの観測者にこのタイミングで湧き起こったのではないかという推測が立つ。なぜなら、徳川まつりのアイドルキャリアの後期には、このようなキャラを試すようなバラエティでの流れがほぼなくなっているためである。つまり、徳川まつりの振る舞いや口調が現実離れした(つくりものとしての)キャラクターに見えることと、徳川まつりという偽らざる現実がそこにあること、この一見矛盾した光景を、――徳川まつり自身が受け入れてもらうために何かを変えたのではなく――観測者の側がみずから受け入れ始めたのである。裏がないなら表もなく、ただ「徳川まつり」を我々は見ているのだと、(仮に観測者には絶対に見えない場所に彼女の本質があったとしても)信じ、受容する方向に、見る側の心持ちを変質させたのだ。

 

 

  • Ⅲ,つくりものとほんものの間にあるもの――「お姫様」に「なる」という矛盾を飲み込むアイドル

 そもそもの話、「お姫様」という存在はディズニープリンセスや童話の主人公が一般的に真っ先に思いつくイメージであると考えられ、えてして「お姫様」とは生まれながらの立場を示す単語である。そのパブリックイメージを背負った「お姫様」を自ら名乗ってアイドルとして活動すること、生まれもっての立場ではないことを自明としながら後天的に「お姫様」に「なる」ということは、パブリックイメージに逆行する矛盾をはらんでいる。その矛盾が、徳川まつりは「キャラ」を演じており、キャラの後ろに本当の人間性があるのではないか、という観測者の疑念の根本にあるものだったのではないか。(Ⅱで述べた通り、徳川まつりはこの「キャラ」問題を突破し、「まつり姫」という存在を確立させたわけだが)

 

 いかなる場面でも「お姫様」であることを徹底していた徳川まつりだが、卒業公演の最後のMCで、「ありがとう、わたしと出会ってくれて」という言葉を発した。文章的にはごく普通に見えるかもしれないが、本レポートでも触れてきた通り「まつり姫」の口調は語尾が「なのです」であったり、一人称が「姫」「まつり」であったりと特徴的なものであり、「わたし」を自称したことは筆者の観測できる範囲では一度もなかった。最後のMCで現れた自らを「わたし」と呼ぶ彼女は、ファンがその日までに見てきた「まつり姫」だったのだろうか。最後の、本当に最後の感謝の言葉を嘘のないものにするために、徳川まつりはファンに対してはじめて一歩踏み込んでくれたのではないか。この一人称の変化すら、ファンがこうやって「最後に心をひらいてくれた」と思い、その後の徳川まつりの不在を慰めるための徳川まつり自身による計算だった、という見方もできるのかもしれないが、それで救われるファンがここに一人いるというだけで、それが計算だったか否かなど些末な問題である。

 

  • まとめ,おとぎ話の終わり方

 冒頭でも少し触れたように、徳川まつりの卒業から数週間経つ現在、削除された徳川まつりのTwitterアカウント(@matsuri_hime_nanodesu)への「リプライ」という形で、一部ファンがその喪失感を少しずつ言葉にするというムーブメントが起きている。もともとファン同士の自治意識が強い765プロファンの土壌もあってか、徳川まつりの引退を責めるような文言は一切なく、「姫のおはようツイートがないのは寂しいけど、姫に元気づけてもらった記憶は消えないし、これからもずっと心の支えです(@otsuru_hane)」「まつり姫が幸せで平穏な日々を過ごせるよう、ファンとして毎日願っているからね(@yoru_no_ko_domo)」等、アイドル・徳川まつりの永遠の不在を受け入れ、ファン自らの日々を歩むことの報告、アイドルでなくなった徳川まつりの幸福への祈りを示すものが多い。このムーブメントのツイート数は徳川まつりの卒業直後が最も多く、現在は頻度が落ち着いてきている。この「リプライ」活動を始めたアカウントの運用者にダイレクトメールで話を聞いてみると、「これは姫のおとぎ話のエピローグとして始めたんです」という返答があった。徹底的にフィクショナルなアイドルとして最後まで存在してくれた徳川まつりという存在・彼女のアイドル人生をひとつの「おとぎ話」と捉え、卒業公演という華々しいラストシーンを終えて姿を消した徳川まつりという物語において、ファンがそれぞれ自分のエピローグを記して物語を締めようとしているのだ、という。

「本当にただの自己満足で、まつり姫に届いているわけがないのはもちろんわかった上で、この「リプライ」を始めました。共感者が多くて、なんかそういう活動みたいになっちゃいましたけど、アイドルを失ったファンが生きていくために、個々がそれぞれ大好きな姫との「おはなし」を完結させているんだと思います」(DM原文ママ

 死別とはまた違う、だけどもう決して会えないことだけはわかるアイドルの卒業というファクターに、絶対的「お姫様」であった徳川まつりが持つ「おとぎ話性」が合わさり、アイドルの不在を納得するための「エピローグ」を必要とするファンが生まれたのだろう。「めでたし、めでたし」のあともおとぎ話の主人公の人生はストーリーの外で続いてくように、アイドルでなくなった徳川まつりの人生もどこか我々には観測できない場所で続いている。ファンはアイドルとしての徳川まつりが残したおとぎ話を何度も読み返し、新しいストーリーが追加されない寂しさに耐えられなくなったら140字以内のエピローグを書きに戻り、主人公のお姫様の幸せを祈る。だから、徳川まつりはアイドルでなくなった今も、まだお姫様ではあるのだろう。